【NNNドキュメント】迫る津波からの避難 “てんでんこ”が救った命 あの日の中学生が語る教訓 〜東日本大震災14年 私たちのあの日〜 岩手 NNNセレクション
『命つないだ“津波てんでんこ”』。
東日本大震災から14年。被災したその人にしか語れない“言葉”がある。今も大切にしているモノ、忘れられないひと言、目にした光景などとともに深く刻まれたあの日の証し。そして、言葉は“メッセージ”へと変わり始めている。
【あの日の記憶:命つないだ“津波てんでんこ”】
岩手県の沿岸、釜石市にある津波伝承施設。『いのちをつなぐ未来館』
川崎さん
「あ、手振ってくれてる。ありがとう。私は、岩手県の釜石市にある『いのちをつなぐ未来館』という施設で働いています、川崎と申します」
川崎杏樹さん、28歳。
川崎さん
「釜石市に(震災)当時、小学校・中学校の児童・生徒、だいたい3000人程おりました。そのうちの生還率99.8%です。釜石東中学校と鵜住居小学校、2つの学校の生徒たちについて、紹介していきたいと思います」
海辺の静かな街でした。あの日。
防災無線
「ただいま岩手県沿岸に、大津波警報が発表されております」
震災当時、川崎さんは中学2年生。通っていたのは、釜石東中学校。隣に鵜住居小学校がありました。
川崎さん
「多分、みんなそうだと思うんですけど、人生が大きく変わった日なんじゃないかなと思います」
「地震が発生した時は、ちょうど部活をしている最中で、いつも通り、みんなと一緒に準備体操をしているタイミングでした。立てるような状況ではありませんでした。地震がちょっと収まってくるタイミングで、『これは絶対に津波が来るんだろうな』というふうに思いまして」
中学生たちは、教員の指示を待たずに避難。それを見た小学生たちも…。
川崎さんはいま、語り部として実際の避難路をガイドしています。
川崎さん
「みなさん、ちょうどこの辺りから、まさに当日、避難をした道に移ってきまして、防災無線が聞こえ始めたエリアになってきます」
中学生は小学生の手を引いて、600人近くが高台を目指しました。
川崎さん
「当時は、この駐車場に私たちは避難をしてきました。ただ、並び直しをしている最中で、大きな地響きのような、地鳴りのような音が聞こえてきました」
何かがぶつかり合うような、異様な音。
『津波だ!』『てんでんばらばらに逃げろ』
三陸に伝わる『津波てんでんこ』の教え。
川崎さん
「あまりにも衝撃的で、なかなか理解が追いつきませんでした。とにかく、頭が真っ白。ですが、ここで見えた津波の景色というのが、すごく記憶に残ってます。津波を見たときに“黒い壁”のような形に(見えた)」
『津波てんでんこ』の教えを守って、子どもたちは命をつなぎました。
その日の夜。避難所となった体育館。
避難した住民
「それにしても、余震多いなや」
子どもたちは、市内中心部の避難所に身を寄せました。底冷えのする夜でした。
川崎さん
「途中から眠れないですし、ずっと同じ姿勢で耐えているのが、そっちの方がしんどいのと、あと、建物が揺れる余震の音があまり好きじゃなかった」
着の身着のまま逃げたから、とにかく寒かった。
釜石市では、津波で1000人以上が犠牲になりました。その6割が鵜住居地区の住民。
それでも子どもたちが助かったのは、震災前から行っていた防災教育のおかげでした。
川崎さん
「小中合同での避難訓練の際には、小学生をおんぶをして避難をするとか、台車に乗せて引っ張って避難していく。地上にやってきたときの津波の速さ、時速36キロの車と生徒たち自身が競争して速さを体験してみるっていう授業がありました」
いつか来る災害に備えて、防災を『自分ごと』に。そして『津波てんでんこ』の教えを未来の命のために。
川崎さんが伝えたい想い。
川崎さん
「大きな災害は自分の身に起きるということ、生きているうちに、津波が来るだろうとは思いながら生活しておりましたが、まさか自分が中学校2年生の時に、それを体験するとはまったく考えていませんでした。そのなかでも助かることができたのは、防災学習のおかげです」
2025年3月9日放送 NNNドキュメント’25『3・11大震災シリーズ(107) 東日本大震災14年 私たちのあの日~紡がれる記憶 伝えたい想い~』をダイジェスト版にしました。
東日本大震災から14年。被災したその人にしか語れない“言葉”がある。今も大切にしているモノ、忘れられないひと言、目にした光景などとともに深く刻まれたあの日の証し。そして、言葉は“メッセージ”へと変わり始めている。
【あの日の記憶:命つないだ“津波てんでんこ”】
岩手県の沿岸、釜石市にある津波伝承施設。『いのちをつなぐ未来館』
川崎さん
「あ、手振ってくれてる。ありがとう。私は、岩手県の釜石市にある『いのちをつなぐ未来館』という施設で働いています、川崎と申します」
川崎杏樹さん、28歳。
川崎さん
「釜石市に(震災)当時、小学校・中学校の児童・生徒、だいたい3000人程おりました。そのうちの生還率99.8%です。釜石東中学校と鵜住居小学校、2つの学校の生徒たちについて、紹介していきたいと思います」
海辺の静かな街でした。あの日。
防災無線
「ただいま岩手県沿岸に、大津波警報が発表されております」
震災当時、川崎さんは中学2年生。通っていたのは、釜石東中学校。隣に鵜住居小学校がありました。
川崎さん
「多分、みんなそうだと思うんですけど、人生が大きく変わった日なんじゃないかなと思います」
「地震が発生した時は、ちょうど部活をしている最中で、いつも通り、みんなと一緒に準備体操をしているタイミングでした。立てるような状況ではありませんでした。地震がちょっと収まってくるタイミングで、『これは絶対に津波が来るんだろうな』というふうに思いまして」
中学生たちは、教員の指示を待たずに避難。それを見た小学生たちも…。
川崎さんはいま、語り部として実際の避難路をガイドしています。
川崎さん
「みなさん、ちょうどこの辺りから、まさに当日、避難をした道に移ってきまして、防災無線が聞こえ始めたエリアになってきます」
中学生は小学生の手を引いて、600人近くが高台を目指しました。
川崎さん
「当時は、この駐車場に私たちは避難をしてきました。ただ、並び直しをしている最中で、大きな地響きのような、地鳴りのような音が聞こえてきました」
何かがぶつかり合うような、異様な音。
『津波だ!』『てんでんばらばらに逃げろ』
三陸に伝わる『津波てんでんこ』の教え。
川崎さん
「あまりにも衝撃的で、なかなか理解が追いつきませんでした。とにかく、頭が真っ白。ですが、ここで見えた津波の景色というのが、すごく記憶に残ってます。津波を見たときに“黒い壁”のような形に(見えた)」
『津波てんでんこ』の教えを守って、子どもたちは命をつなぎました。
その日の夜。避難所となった体育館。
避難した住民
「それにしても、余震多いなや」
子どもたちは、市内中心部の避難所に身を寄せました。底冷えのする夜でした。
川崎さん
「途中から眠れないですし、ずっと同じ姿勢で耐えているのが、そっちの方がしんどいのと、あと、建物が揺れる余震の音があまり好きじゃなかった」
着の身着のまま逃げたから、とにかく寒かった。
釜石市では、津波で1000人以上が犠牲になりました。その6割が鵜住居地区の住民。
それでも子どもたちが助かったのは、震災前から行っていた防災教育のおかげでした。
川崎さん
「小中合同での避難訓練の際には、小学生をおんぶをして避難をするとか、台車に乗せて引っ張って避難していく。地上にやってきたときの津波の速さ、時速36キロの車と生徒たち自身が競争して速さを体験してみるっていう授業がありました」
いつか来る災害に備えて、防災を『自分ごと』に。そして『津波てんでんこ』の教えを未来の命のために。
川崎さんが伝えたい想い。
川崎さん
「大きな災害は自分の身に起きるということ、生きているうちに、津波が来るだろうとは思いながら生活しておりましたが、まさか自分が中学校2年生の時に、それを体験するとはまったく考えていませんでした。そのなかでも助かることができたのは、防災学習のおかげです」
2025年3月9日放送 NNNドキュメント’25『3・11大震災シリーズ(107) 東日本大震災14年 私たちのあの日~紡がれる記憶 伝えたい想い~』をダイジェスト版にしました。
最終更新日:2025年3月23日 14:38