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地下鉄サリン事件「まるで地獄絵図だった」警視庁捜査幹部が初証言 20代の巡査時代に目にしたものと、今も抱く後悔とは─

2025年3月20日 6:11
地下鉄サリン事件「まるで地獄絵図だった」警視庁捜査幹部が初証言 20代の巡査時代に目にしたものと、今も抱く後悔とは─

1995年3月20日、首都・東京を襲った地下鉄サリン事件。発生直後に霞ヶ関駅に臨場した20代の“巡査”は、30年の時を経て、警視庁の捜査“幹部”となった。退職も近づく中、「事件の風化防止に少しでも役に立ちたい」と当時の現場の状況と今、自らに課す使命を初めて語った。

1995年3月20日通勤・通学で混雑する朝の地下鉄で事件は発生した。

午前8時ごろ、現・東京メトロ日比谷線、千代田線、丸ノ内線の3路線、計5本の列車の中でオウム真理教信者が猛毒・サリンが入ったナイロン袋を傘で突き破った。首都・東京を襲った未曽有のテロにより14人が死亡、6000人以上が負傷。あれから30年。

当時、警視庁の“巡査”だった男性は、部下をとりまとめる“幹部”となった。当時を「知らない」警察官が多くなる中、「当初は墓場までもっていくつもりだった」という、事件直後の現場の状況や自らの経験、そして今も抱く後悔を語った。

■突然、無線が錯綜した

現在、警視庁に勤務している捜査幹部は、事件当時、警視庁本部で勤務する20代の“巡査”だった。その当時、東京都内にあるオウム真理教の“道場”では、近隣住民とのトラブルなどが発生していたため、警視庁としてもオウム真理教への情報収集を強化していた。

1995年3月20日。晴天の月曜日。

“巡査”はいつも通り、東京・桜田門にある警視庁本部に出勤。午前7時15分には職場に着き、その日の業務の準備をおこなっていた。同僚や先輩、上司らが出勤し始めた午前8時すぎに、ある異変が起こる。「地下鉄霞ヶ関駅にガソリンがまかれた」「人形町駅や神谷町駅で多数の人が倒れている」110番通報が連続で入り、警察無線が錯綜(さくそう)した。現場で何が起きているのか。“巡査”は他の捜査員らとともに警視庁本部から関係する駅に急ぎ向かった。

■「大変なことが起こってしまった…」

“巡査”の任務は『事件現場を記録に収めるための撮影』。首から一眼レフを下げ、警視庁本部にほど近い、地下鉄霞ヶ関駅の日比谷線ホームへと走った。

「お前は誰だ!」

ホームへの階段を下りると、大きな声がした。顔を向けると、そこにいたのは現場ですでに活動を開始していた鑑識課員だった。

“巡査”は制服ではなく、ジャンパーにジーンズの私服姿で、声をかけられるのも当然だった。「すみません」と言い、黒い革製の警察手帳を示すと。

「現場に来るときは腕章ぐらいするもんだ!」(鑑識課員)

こっぴどく怒られた。

しかし、その脇で多くの乗客がホーム上で倒れ、うずくまる光景が目に入る。

「大変なことが起こってしまった…」

駅構内で動いている人は、駅員と救急隊のみだった。

■「テロの現場」シャッターを押す指が震えた

“巡査”は撮影の任務を遂行するべく、停車していていた日比谷線の車内を見回った。そこで銀色に光る、液体が染み出たビニール袋を見つけた。

「これはとんでもない事件になりそうだ・・・」

当時はフィルムの一眼レフ。今のように撮影した写真をすぐに確認することはできない。

「ミスは許されない」

大きなプレッシャーがのしかかり、シャッターを押す指がガタガタと震えた。停車している電車はドアが閉まっていたため、電車の窓ガラスの上部、少し開いたところからカメラを差し込み、夢中でシャッターを数回切った。

■「助けなきゃ」と瞬時に体が反応

2~30分ほど現場で活動し、警視庁本部に報告するために戻ろうとした。出口が限られていたため、駅員の誘導に従い、ホームを横断し警視庁からは反対側の出口へと向かう。

そこで見た光景はまさに「地獄絵図のよう」(捜査幹部)だった。

出口へと走る足元は、座り込み目や口をハンカチで押さえている人、口から泡を吹いている人、うめき声を出している人で埋め尽くされていた。

その中で、ランドセルを背負った小学1~2年生くらいの2人の少女の姿が目に飛び込んできた。1人はハンカチで口を押さえ座りこみ、もう1人はその脇で心配そうに座って様子を見ていた。

「助けなきゃ」

そう思うと同時に、体が勝手に反応し、幼い2人を両脇に抱え込み、出口へと走った。

「つらくないかい?すぐに外に出られるからね」

女の子はぐったりしていたが、うなずくなどの反応を示した。2人を抱え、霞ヶ関駅の階段をとにかく全力で駆け上がった。

■「外が暗いな・・・」

地上に出てすぐに救急隊をみつけ「あとはよろしくお願いします」と女の子を引き渡した。無事に救急隊に引き渡し、ほっとしたが、気づくと“巡査”は、外が夕暮れのように暗く感じた。晴天の午前中にもかかわらず、だ。

「なんだか、おかしいな…」

こう思ったが、いち早く現場の状況を本部に知らせなければいけない、一刻も早く写真を現像しなければと思い、警視庁本部に戻った。

警視庁に戻り、ネガを取り出して現像をしたが、まだ視界は治らないまま。幹部に写真をもって報告に向かうと、1人の幹部が「ちょっと目を見せてごらん」と声をかけ、ペンライトを“巡査”の目に向けるとこういった。

「縮瞳だね。暗いでしょ?これはサリンの影響だね」

すぐさま別の捜査員が黒い大きなビニールをもってきて、服を入れて持ち去る。病院の診察結果は「サリン中毒症」だった。

■「人間は殺生するのに、ゴキブリは殺さないのか」

後日、病院で治療を終えた“巡査”は、機動隊へ集合した。そこで初めて、山梨県上九一色村(当時)にあったオウム真理教の教団施設に強制捜査に入ることを知らされる。3月22日当日、中央自動車道・談合坂サービスエリア近くで“巡査”を含む捜査員と機動隊員が集結。教団施設に向かう途中、中央自動車道のカーブで窓の外を見ると、赤色灯を点灯させた100台以上の警察車両が約2キロにわたって列を作っていた。

「すごいことをやりにいくんだな…」

まさに戦場に行くような思いだった。

国家の弾圧と闘うとして武装化を進めていたオウム。実際、あの日地下鉄でまかれた猛毒のサリンは、この上九の教団施設で製造されていたのだ。その後、強制捜査の過程で、サリンの生成に使われた大量の化学薬品も押収された。

連日の捜索が続くある朝、「サティアン」と呼ばれた教団施設から出てきた信者がインスタントコーヒーの瓶をもち、何かを側溝に捨てているのが目にとまった。確認しにいくと、瓶から大量のゴキブリを側溝に逃がしていた。

「人間は殺生するのに、ゴキブリは殺さないのか・・・」

信者の行動が全く理解できなかった。信者たちから臭った酸っぱい臭いとともに、この行動は鮮明に記憶に残っている。家宅捜索後の約3か月、指名手配犯の捜査、信者の情報確認などを24時間勤務で繰り返すことになった。まずは病院に運ばれた負傷者から順次、被害届を受理していったが、通勤・通学の人は都内のみならず関東近県に及んだため、地方に出向くことも多かったという。

「刑事さん、犯人を絶対に捕まえてください」

こうした言葉をかけられ、「なんとしてでも検挙する」という思いが強くなったが、休みはなく、今まで経験したことのない疲労に襲われ、心身ともに限界だった。支えとなったのは、「サリンをまいたオウムへの怒り」「サリンで被害にあわれた方々への無念を晴らさなければならない」。この2つだった。

■残り少ない警察人生で抱える「後悔」

当時20代の巡査は、現在は警視庁の捜査“幹部”となった。

「警察の大切な任務は未然防止であると思っています。その点で、地下鉄サリン事件で多くの方が被害にあってしまったことについては忸怩(じくじ)たる思いがある」

当時、若手の1人だったとはいえ、組織の一員として今も、事件を防げなかったことへの後悔は消えない。

ただ、今年で地下鉄サリン事件から30年となり、事件捜査にあたった警察官も退職する人が多くなっている。そうした中で“幹部”は、事件の風化防止に少しでも役に立てればとの思いが強くなり、今回、初めて語ろうと決意した。残りの“警察官”としての自らの使命をこう認識する。

ひとつは「災害等の有事のときは『警察官の矜持』を忘れることなく、都民・国民を守り抜く覚悟をもつ」ことを後輩に継承する。

これは、地下鉄サリン事件発生から約3か月、心身ともに限界の中での捜査ができたのは「自分は都民、国民のために働く“警察官”である」という誇りが心の支えになったからだ。後輩たちには、困難な時こそ、警察官としての“誇り”を忘れてほしくないという。

ふたつめは「地下鉄サリン事件を風化させない」こと。

■いまだに活動する“オウム”…テロから「守る」ためには

警視庁公安部などによると“オウム真理教”は現在、「アレフ」「山田らの集団」、そしてかつて松本元死刑囚の側近の1人だった上祐史浩氏が率いる「ひかりの輪」の3つにわかれて存続している。公安部は「アレフ」「山田らの集団」が麻原彰晃こと松本智津夫元死刑囚への絶対的帰依を強調し、「ひかりの輪」は松本の影響力がないかのように装っているとみている。

信者の数はあわせて約1600人にのぼるとみられ、上記の3団体ともに団体規制法に基づく観察処分の対象となっている。再発防止処分などにより活動は制限され、サリン事件を首謀した松本元死刑囚らは死刑執行されたはいえ、依然、「麻原」の影響力が残った団体が今現在も活動している。

こうした実態も受け、“幹部”は「地下鉄サリン事件の教訓を次の世代につなげるには我々、警察があらゆる機会を通じて情報発信を続けて、社会全体でテロへの意識を高めていき、『テロから社会を守る』機運を作ることが重要だ」と語る。

そして最後の言葉に力を込めた。

「地下鉄サリン事件は絶対に忘れてはならない事件だ」

最終更新日:2025年3月20日 10:15