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【皇室コラム】天皇陛下 沖縄とベルリンでかみしめた平和の貴さ

2022年6月23日 6:00

■県民の4人に1人が犠牲になった沖縄戦

沖縄は、先の大戦で住民を巻き込んだ凄絶な地上戦が行われ、県民の4人に1人、20万人以上の人が犠牲になりました。本島では3人に1人と言われます。集団自決で亡くなった人も少なくありませんでした。

1972(昭和47)年5月、沖縄は27年間に及ぶ米軍の施政を経て日本に復帰します。記念の植樹祭や特別国体「若夏国体」で昭和天皇の訪問が探られますが、戦争に対する天皇の責任などについてわだかまりが強く、見送られます。

1975(昭和50)年、皇太子ご夫妻(上皇ご夫妻)が沖縄国際海洋博のために初めて訪問し、「ひめゆりの塔」で火炎瓶が投げつけられる事件が起きました。天皇の訪問は「懸案」とされながら、なかなか実現には向かいませんでした。

1985(昭和60)年10月、昭和天皇へのご進講の折に、西銘(にしめ)順治知事が2年後に沖縄県で開催される国体への訪問を要請し、動き出します。

「天皇陛下を迎えて沖縄の戦後を終わりにしたい」

知事は常々そう口にしていましたが、反対の声は根強く、過激派は「天皇訪沖阻止」を掲げて動きを活発化させました。皇居に向けて迫撃弾が撃ち込まれたのは陛下の出発の3週間前です。県警は応援をもらって警察官3000人による厳戒態勢を敷きました。

■慰霊、視察――2時間に及んだ南部戦跡

9月19日午前11時15分。浩宮時代の陛下を乗せた全日空機は那覇空港に着陸し、3泊4日の旅が始まりました。

陛下はまず、近くのホテルで西銘知事から「県勢概要」について話を聞かれました。県の『行啓誌』によると、知事は面積の説明のところで「米軍提供施設面積は254平方キロメートルで、県土面積の11%にあたります」と、数字を挙げて米軍基地に触れています。

この後、陛下は沖縄本島の南端にある糸満市摩文仁(まぶに)の南部戦跡に向かわれました。日本軍が追い込まれ、司令官が自決して組織的な抵抗が終わった地です。車で約45分。公的な訪問であることを示す「親王旗」が車に掲げられました。