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戦後80年 特攻作戦の途上で沈んだ戦艦大和 「どんな思いで出たんかのう…」 4歳で父を失った遺族の思い【NEVER AGAIN・つなぐヒロシマ】

2025年4月8日 15:24
戦後80年 特攻作戦の途上で沈んだ戦艦大和 「どんな思いで出たんかのう…」 4歳で父を失った遺族の思い【NEVER AGAIN・つなぐヒロシマ】

80年前の4月7日は、「戦艦大和」がアメリカ軍の攻撃を受け、沈没した日です。大和と運命をともにしたひとりの乗組員には、故郷に残した4歳の幼子がいました。戦後80年。遺族の悲しみは、今も癒えません。

「戦艦大和」沈没から80年

4月7日午前、広島県呉市で行われた「戦艦大和」の追悼式には、およそ300人が参列し、祈りを捧げました。乗組員の遺族も高齢化が進みます。

80年前の1945年4月7日。特攻作戦の命を受け、沖縄に向けて出撃した「大和」は、アメリカ軍の猛攻撃を受け、鹿児島県沖の海底に沈みました。乗組員3332人のうち、生還したのはわずか276人。3056人が、帰らぬ人となりました。

■父が大和で戦死 藤本黎時(れいじ)さん
「80年経ったのかという思いですね。父を通して、大和についての少しばかりの記憶があるぐらいですから、次第にこれから(記憶が)なくなっていくのだなと思ったわけです。」

なんで自分だけこうなったんじゃろう…

80年の節目となった追悼式に、最後の参列と思い、岡山県から訪れた遺族がいました。西輝男さん(84)の父親は、当時4歳の輝男さんを残して、大和と運命をともにしました。

■西輝男さん
「もう、来年は来れんかもわからんで。子どもを守ってくれぇよ。」

父親の治郎作さんは、1944年に招集され、36歳で呉海兵団に入りました。岡山県で農業を営み、6人の家族を養う子煩悩な父親だったといいます。

■西輝男さん
「まあ優しかったな。親父さんがこう、あぐら組んで、あぐらの中にぼくを入れて、話をしながら自分と親父と。芋か餅か…どっちかじゃけど、覚えております。それを食べよったんが。」

1945年8月、終戦を迎えます。残された家族は、父の帰りを待ち続けていました。

■西輝男さん
「毎日のように、お父が帰るかもわからんと迎えにいきよったんです。そしたら、本家の親父さんが押し返して、家に帰って話しをしようと言って。それで家に帰って『実は、治郎作さんは死んだんじゃ』というてね。」

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