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戦後80年 広島・長崎で二重被爆した被爆者 「離れたい…」北海道へ渡った被爆者も それぞれの思い【NEVER AGAIN・つなぐヒロシマ】

2025年3月28日 17:04

翌日、2人は知人を頼って船で似島へ渡ります。そこには、重傷の兵士たちが運ばれていました。

■体験記より(一部抜粋)
「兵舎の中に入ると、ギョッとして立ちすくんでしまった。竹のワンと竹のサジを渡され、火傷の兵隊に重湯を飲ませてやれと言われたが…」

■福井絹代さん
「もうどこが鼻やら口やら分からないからっていうので、弟泣き出しちゃったんですよ。私は、仕方なしに割り箸と牛乳瓶もたされて、ウジを一匹ずつとるとね、顔にわいたウジを。あれはいまだにもう嫌ですね。だって、亡くなる前からウジわいてくるんですよ。」

2人は、生まれ故郷の長崎を目指します。列車が長崎駅に着く手前で、2発目の原爆が落ちました。

■福井絹代さん
「線路の両脇死体。みんなもう傷だらけで、目つぶって「ごめんなさい、ごめんなさい」って言ってね。私ら2人、どうしてこんな目にあわなきゃなんないって。広島であって、やっと長崎帰ってきたら、また長崎もって…」

戦後、被爆地を離れて暮らした福井さん。それでも、苦しみは終わりませんでした。

■福井絹代さん
「心ない人がね、『どこの生まれ』って言って、長崎って言ったら『ああ、ピカドンだ』なんてね。蔑むような目つきで言われたときは、悲しかったですね。」

2度の被爆をともに生き延びた弟の国義さんは、2017年に84歳で亡くなりました。

■福井絹代さん
「本当に私1人だったら、必死で逃げ回るってことなかったと思う。手離すとね、もうバラバラになっちゃうからと思ってね、あの握りしめた感触って、いまだに思い出しますね。」

広島・長崎から遠く離れたい…

海を越えて、さらに北を目指した被爆者がいました。北海道札幌市の郊外に「平和通」という町があります。

「ノーモア・ヒバクシャ会館」は戦後、北海道に渡った被爆者たちが作りました。日本被団協に加盟する「北海道被爆者協会」が運営しています。広島・長崎に次ぐ3つ目の「原爆資料館」の館内には、被爆者から寄贈された遺品やパネルなど、およそ150点が展示されています。

■北海道被爆者協会事務局次長 北明邦雄さん
「汽車の窓からも見えるようにということがあって。それで一番上に、原爆ドームを模したああいうデザインをつけたんですね。」

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