戦後80年 若者が命を落とした特攻作戦 広島・福山市の基地から出撃した9人が海に散る 「福山海軍航空隊」の秘話【NEVER AGAIN・つなぐヒロシマ】
太平洋戦争末期に、多くの若者が命を落とした特攻作戦。彼らの訓練基地が福山市内にもあったことはあまり知られていません。9人の若者が沖縄の海へと散っていきました。特攻隊員の写真や手紙、当時を知る人の証言からひもとく「福山海軍航空隊」の秘話です。
笑顔で写真におさまる、制服姿の若者たち。20歳前後の彼らは、海軍の航空隊に所属し、特攻のため、沖縄の海へと飛び立ちました。
福山で開かれた市民祭りで展示されていたのは、「福山海軍航空隊」を紹介したパネルです。
■訪れた人は…
「こういうのがあったことを知らなくて。一番端の小林旅館の写真とかも若い方が…泣いてはいけないけど。若い方が逝くのを見てちょっとびっくりした感じで、見れてよかったと思います。」
「福山海軍航空隊」は1944年、香川県にあった航空隊の分遣隊として設置され、全国から隊員が集まりました。
基地に配備されたのは、偵察用の水上機です。戦艦大和にも搭載された零式観測機も、そのひとつです。水面を滑走できるよう、「浮き」が付いています。一方、戦闘機と比べてスピードは出ず、特攻には不向きでした。
当時、基地のすぐそばに住んでいた沖藤一さん(93)です。飛行訓練を、たびたび目にしていました。
■沖藤一さん
「整備兵がフロート(浮き)に乗って、プロペラを持って、(海へ)引っ張って、エンジンをかけていた。飛び立つ、着水する(様子を)何本も見ました。中には上手いこと着水できず、 ひっくり返るのも何本か見ました。」
訓練に励む隊員たちは、休日を近所の家で過ごしました。沖藤さんの親戚の家にも隊員が訪れ、ぜんざいやお菓子が振舞われたといいます。
■沖藤一さん
「遊びに来る家は、おじいちゃんおばあちゃんは優しい人だったから、自分の家に帰ったような気になって休養して、一日を過ごしていたんじゃないかなと思います。」
戦況が厳しくなった1945年4月。特攻に備えるため、24人が零式観測機で、九州の基地へ向かって飛び立ちました。そして6月、鹿児島で待機していた9人に、出撃命令が出ます。彼らは沖縄に飛び立ち、海に散っていきました。