93歳が語る、父を失った硫黄島の戦い「すがって泣いた。この世のお別れだと」【戦後80年】
敗戦を機に平和主義と経済復興の道を歩んできた日本で、硫黄島は多くの犠牲を強いられ、遺骨収集や島民の帰還など課題が積み残されたままです。
戦後80年、遺族と元島民の思いを聞きました。
仙台市の永澤庄一郎さん(93)。
終戦の1年前、12歳の時、父が出征した日のことを鮮明に覚えていました。
永澤庄一郎さん(93)
「父は黙って出て行ったのが分かった。すがって泣いた。この世のお別れだと。何年経っても親は親」
父・卯之助さんが向かったのは激戦地として知られる硫黄島でした。それきり帰ってきませんでした。
永澤庄一郎さん(93)
「みんな天皇陛下バンザイと言って死んだのではない。みんなお袋の名前を言ったり、家内の名前を言ったり…」
2025年4月、天皇皇后両陛下は太平洋戦争の激戦地・硫黄島を訪問され戦没者に祈りをささげられました。
陛下
「今年 戦後80年という節目を迎え 各地で亡くなられた方々や苦難の道を歩まれた方々に改めて心を寄せていきたいと思っております」
硫黄島の激戦はどのような戦いだったのでしょうか?
1941年、日本軍はハワイ真珠湾に先制攻撃し、太平洋戦争が勃発。
日本軍はアジアから太平洋の島々に大量の兵士を送り込み、勢力を拡大しました。
しかしその後、米軍の反撃でサイパンやグアムなどマリアナ諸島を攻め落とされ、劣勢に立たされます。
日本本土への攻撃のため重要な補給地として、米軍が狙いを定めたのが硫黄島でした。
硫黄島での戦いを前に、日本軍は島の住民を強制疎開させます。
そして本土などから兵士を島に送り込み、全長20kmにもわたる人工の洞窟を張り巡らせます。
身を潜めながらのゲリラ戦です。
これに対し、米軍は砲弾や火炎放射器などで襲いかかりました。
この戦いで日本軍は兵士ら2万1900人が犠牲となったのです。
硫黄島の歴史を研究する専門家は、島は捨て石にされたと指摘します。
石原俊 教授
「水際で迎え打つのではなく米軍を上陸させて壕の中からゲリラ戦を行う。完全に本土の防衛拠点に整備するための時間稼ぎの捨て石にした」
永澤庄一郎さん(93)
「負ける戦争を何でやったのかと思う。特攻隊と同じ戦いだから」