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【戦後80年】”スパイ養成学校”で訓練を積んだ102歳の男性 秘密戦士の実態を証言(浜松市天竜区)

2025年5月14日 18:44
【戦後80年】”スパイ養成学校”で訓練を積んだ102歳の男性 秘密戦士の実態を証言(浜松市天竜区)

戦時中“スパイの養成学校”が浜松市天竜区にありました。秘密戦士として、訓練を積んだ102歳の男性がその実態を証言しました。

以下は戦時中、静岡にあったゲリラ戦の幹部を育てる、「秘密機関」の実態をまとめた記録です。

「講義の時、渡される極秘印の教科書も、講義が終われば全て取り上げられる。学んだことは、その場で完全に頭の中に焼き付けなければならない」
「捕虜になってもかまわない」
「捕虜になったら敵にニセの情報を流す」

生徒は秘密戦士と呼ばれた“スパイの養成学校”。つくられた場所は、浜松市天竜区二俣町にある山のふもとでした。かつて正門があった場所には、生き残った卒業生らが建てた石碑が、ひっそりとその歴史を伝えています。

1944年、アメリカ軍の上陸によって日本が支配していたサイパン島が陥落。戦況が厳しくなる中、工作活動を行うゲリラ戦の幹部を短期間で養成するため、東京・中野にあった「陸軍中野学校」の分校としてつくられたのが、「二俣分校」でした。天竜川や山など特殊な訓練を行う環境が、周りにそろっていたことから二俣に分校ができたとみられています。

地元の図書館には「二俣分校」に関する資料がわずかに残されていますが、終戦まで地元住民にも、その実態が知らされていなかったといいます。私たちは、当時を知る地元住民をたずねました。鈴木小藤さん(90)。夫の邦夫さんは10代のころ、二俣分校で教官の助手をしていました。5年前、92歳で亡くなった邦夫さんは、生前“二俣分校の実態”を家族に明かしていました。

(鈴木小藤さん)
「スパイの学校だから、絶対何かをメモしておくことは一切なくて、全部頭の中に入っていて」
「軍服ではなくて背広を着ていた。背広でね、普通の人と同じように生活していたみたい」

そして、終戦の日には学校の存在がわかるものを、すべて処分するよう命じられ、機関銃などを天竜川に投げ捨てたことも聞かされたそうです。

「二俣分校」が広く知られるようになったのは戦後、30年にわたりフィリピンに潜伏し、1974年に日本に帰還した小野田寛郎さんの存在です。二俣分校の1期生だった小野田さんは、終戦の正式な連絡が届かなかったことからジャングルでゲリラ戦を続けていました。

兵庫県明石市にかつて二俣分校で小野田さんと訓練を受けた男性がいます。二俣分校の1期生だった井登慧さん(102)。

(井登慧さん)
「これが、二俣分校時代の私の写真です」

井登さんは兵庫県出身。21歳だった1944年、将校を養成する学校にいましたが、突然、教官から呼び出され面接を受けます。そして、1944年9月、何をやるのかわからないまま命令をうけ、二俣に向った井登さん。ところが、校門には“違う学校の名前”が記されていました。

(井登慧さん)
「本当の名前は絶対出すなと。ここでは秘密戦の訓練をする。秘密戦士としてお前たちはここで訓練するが、3か月に縮めて訓練するから厳しい訓練だが、覚悟を持ってかかれと」

軍人は丸刈りが当たり前だった時代。一般市民に溶け込むため、教官は長髪姿…3か月間の教育は“独特な内容”ばかりでした。

(井登慧さん)
「(教官が)二俣の街にどんな特色があるか言うてみいと。それはわかりませんと言う。二俣の街の産業は何か。それもわかりません。探し回ってやっと二俣に着いて、いきなりそんな話を言われても全然わからない。ぼんやり見ているだけではいけないんだ。こういうことをわかるようにするのを“考察”と言うんだ、と」

これは二俣分校の前身となる「教育訓練機関」が当時の陸軍大臣に送った報告書。細菌戦・爆破実習・謀略勤務…。“極秘”と書かれた文書には、スパイを養成するための特殊な訓練内容が記されていました。

井登さんは、農民に変装し農家に下宿しながら1週間暮らしたり、地元住民を装いバーで酒を飲んだり、すべて敵の陣地に潜入し情報をとるための訓練でした。ただ、最も記憶に残っているのは、これまで学んできた軍事教育を否定されたことでした。

(井登慧さん)
「(それまでは)いつでも命を投げ出せ!という訓練ですからね。それが中野(二俣分校)に入ったら“生きろ”と。全然正反対の教育ですから。何とか生き延びることを考えて、絶対命を軽んじてはいかんと。そういう教育を受けたわけです。」

1944年11月、井登さんらおよそ230人が3か月間の訓練を終えました。二俣分校を卒業した井登さんは、台湾にわたり現地のゲリラ部隊を指揮しましたが、アメリカ軍が上陸することなく終戦を迎えました。

フィリピンに潜伏していた小野田さんとは帰国後、再会を果たしました。井登さんは、小野田さんが30年近くジャングルに潜んでいた事実を知っても、驚かなかったそうです。

(井登慧さん)
「日曜日はみんな外出するけれど、小野田は二俣の旅館を借りて勉強したりね。真面目で立派な軍人というか。小野田がルバング島にいることがわかっても、小野田ならそりゃ頑張るよと」

小野田さんをはじめ、多くの卒業生が亡くなりました。数少ない証言者である井登さんに、二俣分校はどんな存在だったのかたずねると。

(井登慧さん)
「絶対生きて帰れない。特攻作戦というのを戦争の末期にやったんですよね。人間の命なんて、それこそ人間と思っていない。二俣分校の教育というのは命を大事にせよ、いつまでも生き延びよと、そして国のために頑張れという教育でしたから。とにかく長生きして世のため人のために役に立ちたいという気持ちをずっと持っています」

太平洋戦争末期のわずか1年足らずしか存在しなかったスパイ養成学校。102歳の元秘密戦士がその記憶を語り継いでいます。

最終更新日:2025年5月19日 18:41
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