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特集【戦後80年・戦艦大和 乗組員遺族の思い】岩手

2025年4月7日 18:59
特集【戦後80年・戦艦大和 乗組員遺族の思い】岩手

ことしは「戦後80年」です。世界で戦争が起きる中、プラス1では系列局のテーマ「いまを、戦前にさせない」のもと、平和の尊さについてシリーズで考えます。

80年前の4月7日、「戦艦大和」が沖縄への海上特攻の途中で米軍に撃沈されました。その「大和」に乗り、戦死した岩手出身の軍人がいます。遺族が語りました。

80年前の4月7日、多くの若者と一緒に海の底へ沈んだ史上最大の戦艦・大和。その中には、岩手出身の軍人もいました。

遺族の元に届いた一通の手紙があります。非業の戦死を伝えています。

(手紙)
 「海軍中尉、猪股慶蔵殿には西部太平洋方面において作戦に従事中、昭和20年4月7日、戦死せられ候」

一関市花泉町出身の猪股慶蔵さん。80年前の4月7日、35歳の若さで戦死しました。

 兄の孫・猪股恭一さん
 「名誉の戦死というか、それだけしか聞いておりません。 ただ、ただ、お前のおじさんは 優秀な人だった。そういうことだけだった」

 娘の松川尚子さん
 「皆さんとか日本を守りたい。そういう一心で家族のことなどは考えないで向かったので はないかと思います」

慶蔵さんの娘、松川尚子さんと、慶蔵さんの兄の孫、猪股恭一さんです。

戦後、親せきで集まったとき、よく慶蔵さんの話が出たといいます。

 娘の松川尚子さん
 「(慶蔵さんと)会ったことは私は赤ちゃんだったので(覚えていない)。(慶蔵さんが)帰ってきたときに、 おしっこをさせようとしてストンと落としたと聞いている」

 兄の孫・猪股恭一さん
 「ソロモン海戦か何かで決死の覚悟で行ったんだけど、 途中まで行って、そっちで負けて。本隊の方が負けて、途中から引き返してきて、家の方に帰ってきたときに親戚中が集まって、また生きて帰ってきたとそういうことを聞いている」

恭一さんは、慶蔵さんの「生きた証し」である帽子や写真、手紙などの遺品を大切に保管してきました。

慶蔵さんの軍歴を示す履歴書です。

1929年、横須賀海平団に入り、その後、信号員として実戦部隊に所属して、重巡洋艦「愛宕」や第二艦隊の司令部などで通信畑を歩んできました。

戦艦「大和」。史上最大46センチの主砲を持ち、アメリカに対抗しようと日本の威信をかけ、当時の技術の粋を集めて建造されました。

 大和ミュージアム 戸髙一成館長
 「大和というのは、本当の最後の瞬間に使う本当の意味の切り札として作られた船だったんです」

大和が建造された広島県呉市にある博物館・大和ミュージアムの戸髙一成館長によりますと、大和に乗船できる人は限られた優秀な人だけだったといいます。

 戸髙一成館長
 「水兵さん、士官でも成績のいい 人間を充ててます。水兵さんも 大和の乗り組みの辞令をもらうとみなさんは喜んだ。自分が認められたというくらいの気持ちになったと思う」

沈没のおよそ3か月前、大和の甲板で撮影された写真に慶蔵さんの姿もありました。階級の高い士官クラスが集まって撮影されたとみられています。

海軍に入った時は一番階級の低い「水兵」だった慶蔵さん。その後、士官クラスの「中尉」にまで昇り詰める程、実務経験が豊富だと認められました。

 Q最初通信兵だった人って?

 戸髙一成館長
 「それで中尉ですか。それはすごいベテランですね。 兵から士官になるというのは、 かなり、相当キャリアを積んだ人じゃないとなれないので、兵学校出の中尉に比べてすごい年上ですよ」

 記者「亡くなった時は35歳ですね」

 戸髙一成館長
 「兵学校出の中尉はもっと若いですからね。海軍の中で通信関係のベテランで特務中尉の通信士官だったら大和の通信関係の非常に重要な実戦的なポストだったと思います」

そして、岩手出身者が大和に乗っていたのは非常に珍しいといいます。

 戸髙一成館長
 「岩手の人は例外ですね。兵隊さんは、全部採る場所が決まっている。岩手の方だったら全部横須賀鎮守府に入る。士官になると、飛行科の人間と士官は、その鎮守府の区切りに関係なく、 辞令であちこち行かされるので、中尉だったら岩手だけどこれは ベテランだから大和に乗せよう ということだったんだと思う」

 1945年4月1日、米軍が沖縄に上陸し、沖縄本島での戦いが始まります。

 劣勢に立たされた日本軍の体裁を保つため、護衛の駆逐艦などわずか9隻とともにおよそ3300人を乗せて沖縄へ向かった大和。無謀とも言える「海上特攻」でした。そして・・・

 大和ミュージアム 戸髙一成館長
 「一方的な航空攻撃を受けて大和の反撃能力が次々に失われて、周りの船も半分以上 沈んで、大和は沈んだ」

大和はおよそ20発の爆弾や魚雷を受け、3000人余りとともに九州の南西沖に沈みました。

 猪股恭一さん
 「とにかく自分の役目を果たすということ、それだけのようです。最後の最後は。自分のため家族のため、周りもあって家族のためだと思うがそういう思いだったと思います」

慶蔵さんが妻のさよ子さんに宛てたはがきが残されています。

はがきが出された日付は亡くなる4か月前。家族を思う気持ちにあふれていました。

 「尚子ちゃん、元気ですか。当方、相変わらず元気ですから、ご安心ください」

 松川尚子さん
 「本当に救われました。役目的にはきちっとしないと、 一つの誤りが大きい誤りになるから、そこら辺は厳しかったでしょうけど、一般的には柔らかい心の人だったんだなと今思います。」

大和が沈んで、4月7日で80年。今なお世界各地で戦火が絶えない中、遺族は悲惨な戦争を無くしたいと強く願っています。

最終更新日:2025年4月7日 18:59
    テレビ岩手のニュース