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終戦直後に日本へ引き揚げ 祖母に聞く戦争【終戦企画】

2025年2月27日 19:49
終戦直後に日本へ引き揚げ 祖母に聞く戦争【終戦企画】
テレビ宮崎

戦後80年を迎える今年。
#Linkでは「過去を知る未来に伝える」をテーマにした特集をシリーズで放送しています。
今回は私が戦争について話を聞きたかった身近な人にインタビューしてきました。

(児玉泰一郎アナウンサー)
「私の祖母、児玉千恵子さんです。よろしくお願いします!」

Qいま何歳?
「93歳になりました」

Qインタビューのために美容室に行っていただいたと?
「4,5日前にはパーマをかけてきのうはセットに行ってきた」

Qきょうのインタビューのために2回?
「はい!やんかぶってました(伸び放題だった)ので」

1931年生まれ、93歳の祖母・児玉千恵子さん。
小林市に住んでいるので幼い頃から「小林ばあちゃん」と呼んでいました。

Qばあちゃんのことを小林ばあちゃんと呼ぶわ、ばあちゃんの出身は小林やと?
「出身地?北朝鮮だわ、北朝鮮で生まれました。」
「父、母が北朝鮮に行って生活してたから」

私の曾祖父である清水儀一は、小林から日本の統治下にあった朝鮮半島に渡り鉄道会社に勤めていたそうです。
同じく朝鮮半島に渡っていた曾祖母・絹枝と結婚し、私の祖母・千恵子は9人兄弟の三女として朝鮮半島の北部現在の北朝鮮で生まれました。
祖母が10歳となった1941年。太平洋戦争が勃発。
戦争は激しさを増していきますが、中学生になった祖母は日本人と朝鮮人が通う女学校に通っていました。

Q当時の朝鮮の人と日本人の関係性は?
「全然その差が、差別はない。もうほんの普通の友達で、仲良くしてもらったのよ」

Q例えばパクさんとかキムさんとかそういう人たちと?
「日本人の名前、みんな日本語の名前」
「だから大原さんとか小原さんとか金田さんとかって呼びよったから」
※創氏改名…当時の日本が行っていた朝鮮人の姓を日本式に改めさせる政策。

朝鮮人の友達とも楽しく過ごしていた女学校での日々。
しかし、学校で先生から日本の敗戦を告げられたあの日、同じクラスの一部の朝鮮人の反応が今でも祖母の脳裏には焼き付いています。

「日本は負けましたって。なんでってみんなぽけーとしてね」
「そしたら向こうの朝鮮人はね手を叩いたの(喜んで)。この人たちはやっぱ戦争が好かんかったんかなと思ってね、自分たちが今度は自由になると思ったのかなと思って」

曾祖母が当時を振り返った手記にはこんな言葉が残っています。
『機関庫に朝鮮人が押しかけてくるから一同銃剣を持って守るよう指令』

このまま朝鮮では暮らせない…
曾祖母は仕事のある曽祖父を残し、子供8人を引き連れ、日本へと引き揚げることを決断しました。
終戦から1カ月も経たないうちに祖母は家族で韓国・釜山から引き揚げ船に乗り、日本を目指しました。
この時、船内に立ち込めていた臭いをいまも覚えているそうです。

「もう本当臭くてね。はよ降りたかった」
「おしっこしたり、うんちをする人もいるから船の中はめちゃくちゃ」
「子供たちはね、甲板の方乗せられたわけよ、甲板に乗せられたけど今度は夜中に雨が降り出してね、もう下に下がってきてみんなぎゅうぎゅう詰めでね」

日本に戻った祖母は家族で曽祖父の出身地である小林市へ。
その後、曽祖父も日本へ戻り、一家11人での生活が始まりました。

しかし、仕事はなく貧しい日々…
そのような中、曾祖母は子供たちを養うためある仕事を始めました。

「アイスキャンデーは現金商売ができるでしょ。だからね、キャンディ屋さんにね。」

朝鮮に住んでいた頃は、お手伝いさんのいる家で専業主婦だった曾祖母。
リアカーにアイスキャンディーを積み、売り歩いたそうです。

「ばあちゃんは何もしたことないお嬢様だったのにね、今度は真夏はチリンチリン鳴らしてアイスキャンデー売って歩いて日銭を稼ぎよって、ほいで生活しよったの大変じゃったの。だから。」

今回の取材で初めて知った祖母の過去。
最後に孫である私に自分から戦争の話をしてこなかった理由を聞きました。

(児玉アナウンサーの祖母・児玉千恵子さん)
「戦争好かんかったからね、思い出さんように、だから子供たちにあんまり話したことないよ」
「したらいかん、戦争はいかんわね~」

最終更新日:2025年2月27日 20:17
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