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【亡くなった兄の分まで】救えなかった命と泣き崩れる家族に寄り添い…救急救命の現場で奮闘する看護師 能登地震の避難所にも派遣 事故現場で祈り「悲しくて悔しいのは兄も一緒」 ≪JR脱線衝突事故から20年≫

2025年4月24日 8:00
【亡くなった兄の分まで】救えなかった命と泣き崩れる家族に寄り添い…救急救命の現場で奮闘する看護師 能登地震の避難所にも派遣 事故現場で祈り「悲しくて悔しいのは兄も一緒」 ≪JR脱線衝突事故から20年≫
兄を亡くした上田篤史さん


「兄の死を経験しなれば、今の仕事に就いてなかったと思う」

 男性はある日突然、3つ年上の兄を失った。あれから20年が経ち、救急救命の現場で、負傷した人の命をつなぎとめるために懸命になって働いている。目の前で助からなかった命と、悲しみに暮れる家族―。つらい気持ちがないわけではない。それでも、「兄の無念さや悔しさを考えたら、へこたれている場合ではない」と奮い立たせ、医療現場の最前線に立ち続けている。(報告:三宅直)

■大学に通い始めたばかりの兄が2両目に乗車…帰らぬ人に

 2005年4月25日に兵庫県尼崎市で起きた「JR福知山線脱線衝突事故」。速度を40キロ以上超過した列車がカーブを曲がり切れずに脱線し、沿線のマンションに衝突。

 乗客106人と運転士が命を落とし、562人が負傷する「平成以降最悪の鉄道事故」となった。

 上田さんの兄・昌毅さん(当時18)は、2005年4月25日、入学したばかりの大学に向かうために2両目の電車に乗り、事故に巻き込まれ、帰らぬ人となった。

 事故の後、ふさぎこむ両親を見て、当時、高校1年生だった上田さんは、「兄のことを口にするのはやめよう」と決意したという。

 転機となったのは、事故から9年目の2014年に執り行われた追悼慰霊式。24歳となった上田さんは、父からの説得もあり、遺族代表として初めて人前で兄への思いを語った。

上田さんの遺族代表のことば
「兄のことを知らない友人からは『兄弟は?』と聞かれることもあり、そのときは『一人っ子』と答えていました。もういなくなってしまった兄のことを話すのは本当につらかったのです。兄の年齢を追い越した今、私が兄のためにできることは、兄の分まで自分の人生を精一杯生きることです」

 上田さん自身も、「あんなに人前で涙を流すとは思っていなかった」と振り返るが、周囲から「頑張ったね」「私も涙が出た」と声をかけられ、「こうやって話すことはとても意味があることなんだ」と自らの思いを発信する大切さを感じたという。

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■救急救命センターの最前線で…兄を失った身だからこそ「共感」
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