【戦後80年】軍施設や軍需工場がない港町がなぜ被害に…爆撃を受けた住民の手記も 金浦空襲の真実
終戦から80年となる今年、日本テレビ系列各局では、「いまを、戦前にさせない」をテーマに、様々な企画をお伝えします。
11日は、空襲についてです。
秋田県内では、戦後、多くの人が被害の実態を伝えてきた土崎空襲が広く県民に知られていますが、ほかにも、県内各地で空襲の被害がありました。
県警察本部の歴史をまとめた書籍には、終戦直前の1945年、昭和20年の7月以降、アメリカ軍空母の艦載機による小規模な空襲が、秋田市や横手市、男鹿市などで立て続けにあったと記されています。
秋田でも、当時の国民学校の校舎や、工場など、軍事施設以外の建物や、一般人が乗る列車も攻撃され、死者が出ました。
戦後80年を迎え、進む戦争の記憶の風化。
11日は、知られざる県内の空襲の中から、軍の施設や軍需工場がないにも関わらず攻撃を受けた、「金浦空襲」に焦点を当てました。
■「誰一人想像していなかった」校舎や民家が標的に 金浦空襲
日本海に面する、にかほ市金浦地区。
港のすぐそばに、旧・金浦小学校の跡地を利用した防災公園が整備されています。
いまから80年前の1945年、昭和20年8月10日。
この場所にあった校舎と近くの民家が標的となった、金浦空襲がありました。
旧金浦町がまとめた町の歴史・町史には、当時の被害の様子が事細かに記されています。
「敵機来襲 低空ヨリ爆弾投下シ一戸二命中」
「機銃掃射二ヨル被害重傷三名 軽傷六名ヲ出シタリ」
「サイレンが鳴った 空襲警報だ 表におった子供に大声で自分の家に帰した 淑子・伸夫に防空帽と足袋を履かせた みっちゃんの子供・幹雄を探したところ泉水で金魚をいじって遊んでいた それから死に物狂いで子どもをまとめた 全員そろったので防空壕に走った」
軍の施設はおろか、軍需工場もない金浦地区への空襲。
町史には「町民の誰一人想像していなかったことだった」と記されています。
爆弾が直撃して、倒壊した3軒の民家。
戦後、このうちの1軒に嫁いだ佐藤てつ子さん90歳は、いまは亡き夫から、当時の様子を詳しく聞いていました。
佐藤さん
「隣の人と3人で遊んでいたんだって。玄関のところで。そこに学校に落としたのが外れて、ここに落ちたって言っていました」
「あの当時だってここら辺で(戦争で)けがをするというのは、ちょっと考えられないよな」
「そうですよね、敵機にねらわれるということですよね」