【戦後80年】軍施設や軍需工場がない港町がなぜ被害に…爆撃を受けた住民の手記も 金浦空襲の真実
■小さな港町がなぜ…専門家の分析
なぜ、小さな港町が狙われたのか。
大分県在住の航空戦史家・織田祐輔さんは、アメリカの国立公文書館に所蔵されている作戦資料から、山形の軍事施設をねらった攻撃が、ある理由で金浦に変更されたと分析します。
織田さん
「米軍は8月9・10日と、東北地方にある船舶・艦船や、飛行場を主に叩くっていう作戦を立てたんですよ。その一環で、山形の鶴岡にある飛行場を空襲しようとしていたんです。空母から発進した艦載機が、鶴岡に向かっている途中に、たまたま天気が悪かった。天気が悪くて日本海沿岸まで行ったものの、これ以上先の天候が悪いので、鶴岡まで行けないかもしれない。なので、近くにある臨機目標、手近で攻撃価値があるというふうな目標を探し始めたんですよね」
「何かいい目標がないかなと探していたところ、たまたま米軍が大きな建物を1か所見つけたので、あそこを爆撃しようとなって、11機の編隊のうち2機だけがそれを攻撃したという形になります」
■当時の状況を克明に…爆撃受けた住民の手記と家族のその後
80年前、突如艦載機に襲われた金浦地区。
爆弾が直撃した民家の住民が、当時の状況を克明に書き記していました。
「裏の方(西側)をみると、米軍機が12、3機ずらりと並んで、ピカピカ光りながら上の方へ行く防空壕に行く間なしと直感、家に戻って子どもを押し入れに入れた。一番に男の子・伸夫を入れた。淑子を入れるか入れないうち『ドガン』とまだ聞いたことのない大きな音、それと全く同時に真っ暗になった」
「身は動かない。熱くてたまらない。子供は熱い、痛い、熱いとわんわん、わんわん泣く、どうにもならない。そのうちドン、ドン、ドンと音がし、小さな穴がいくつもあいて、刺すように光が入ってきた。そしていくらか熱さも楽になり、呼吸も容易になった。敵の銃撃がかえって、私を助けてくれたのでした」
「それでも子どもはなお熱い、痛いと泣いていました」
「幹雄は機銃で腕を撃たれ、淑子は梁で手が抑えられていることが分かった」
手記を残したオシンさんの三男・佐々木孝さん。
戦後生まれで、当時の状況を直接目にしていませんが、空襲で大けがをしたいとこを通して、戦争を感じていたといいます。
佐々木さん
「幹ちゃん(幹夫さん)いとこ同士になるけども」
「(けがが原因で)片手、生涯片手、それでもスポーツは好きで」
幼くして空襲で片腕を失ったいとこの幹雄さんは、その後、公務員として、長年、地元で働き、去年、亡くなったといいます。
佐々木さん
「(空襲のことを)話したのは久しぶりというか、何十年ぶりといえばいいか。だって、話す相手も聞く気がない。もし聞く気なら話すけども」
過去の出来事として埋もれていく、空襲の記録。
終戦から80年。
戦争を経験した人たちの減少で、記憶の風化も加速度的に進行しています。
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