【戦後80年】墜落したB29の痕跡を求めて…道なき道を行く探検家 探索にカメラが同行 新たな発見が次々と
■さらなる痕跡を求めて…探索に同行
6年前に始めた探索。
今回は、現場の状況を肌で感じたいと、男鹿市の職員も同行しました。
向かう先は本山に広がる国有林で、立ち入りが制限されている場所です。
髙橋さんは、林野庁と航空自衛隊の許可を得て探索しています。
GPSも活用しながら進む、道なき道。
探索ができるのは、草木が生い茂る前の春と、葉が枯れ落ちて、雪が積もる前の秋の、限られた期間だけです。
髙橋さん
「やっぱり加茂青砂の集落との近さというか、現場に入るたびに、あそこの集落から助けに来たんだなという。そういう近さをすごく感じますよね」
探索の現場にほど近い男鹿市の加茂青砂地区は、墜落したB29と深い関わりがあります。
■墜落から生き残った19歳 地元住民との交流
原爆の投下や、終戦前夜から行われた土崎空襲の爆撃でも知られるB29。
「鬼畜米英」として日本がアメリカを憎んでいた時代、終戦からわずか2週間後に本山に墜落した機体には12人の兵士が乗っていて、そのうち11人が死亡しました。
加茂青砂地区の住民
「とてもじゃねぇなということで、この部落民全部招集したの。それでナタたがえたりカマたがえたり行ったもんだから、このノーマン軍曹、ほれ、最尾翼のほうで助かっていたども、殺されるかと思ってびっくりしたんだな」
「1人助かって、住宅さ連れてきたども、ごちそう食べさせるって言っても、とっても食わね。悪いものだからと思ってな」
生き残ったのは、当時19歳だったノーマン・H・マーチンさんただ1人です。
加茂青砂の住民たちが本山から助け出しました。
それから45年が経った1990年。
マーチンさんは改めて加茂青砂を訪れて、感謝の思いを、直接、住民たちに伝えました。
マーチンさん
「何人の人が私を助けてくれたんでしょうか」
自分だけが生還したことに罪悪感を覚え、長く、墜落やその後の出来事を語らなかったというマーチンさん。
マーチンさん
「日本もアメリカも戦争をせず、世界の平和が続くように一緒に歩み続けなければならない」