被爆80年 美空ひばりが歌に込めた思い 広島平和音楽祭で生まれた平和の歌 被爆者が作詞した歌も・・・【NEVER AGAIN・つなぐヒロシマ】
並々ならぬ思いで臨んでいた、ひばりさん。真夏の舞台裏でのエピソードが残っています。
■元日本コロムビアレコードディレクター 森啓さん
「ひばりさんは楽屋に帰らないで、一番近いところで待っていた。(スタッフが)「冷房のある楽屋へお帰りになって、お休みください」って言った。その時、ひばりさんがポツンと『広島の人はもっと熱かったのよね』と言ったので、周りが硬直した。」
会場の県立体育館は、4500人の観客で一杯になりました。
■美空ひばりさん
「これから2度と、あのような恐ろしい戦争が起こらないよう、皆様とご一緒に祈りたいと思います。いばらの道が続こうと、平和のためにわれ歌う。」
音楽祭はその後20年間、平和の歌を発信し続け、その数は150に上りました。中には、一般から詞を募り、つくられた歌もあります。
■司会
「ゴールデン・メイプル賞の発表です。詩の題名は『広島・市電・街景色』。」
当時、広島電鉄の運転士だった三宅辰美さんは、1983年に第9回の音楽祭で最優秀賞を受賞し、因幡晃さんが歌を付けました。
あれから40年あまり。101歳を迎えた三宅辰美さんを訪ねました。
■記者
「作詞はお好きですか?」
■三宅辰美さん
「好きで好きで。全部犠牲にしました。」
仕事の傍ら、作詞に打ち込んできた三宅さん。原動力は、平和を願う思いでした。飛行兵として徴兵され、広島を離れていたとき、原爆が投下されました。家族は無事でしたが、多くの友人を失いました。
■三宅辰美さん
「私だけ助かった。みんなやられた。若い人から年寄りまで。」
終戦後、友人を探して市内に入り被爆。それでも、広島で働きたいと6年後、広島電鉄に入社しました。
■三宅辰美さん
「お客さんが必ず、原爆ドームのところでは頭を下げる。それがうれしくてね。電車を離れられなくなったの。そういうものを見てきて、広島を好きになったの。」