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"食は命なり" 料理研究家が語る原爆の記憶 食べ物を通じて次の世代につなぐ「平和の尊さ」《長崎》

2025年4月9日 6:45
"食は命なり" 料理研究家が語る原爆の記憶 食べ物を通じて次の世代につなぐ「平和の尊さ」《長崎》


原爆をテーマにした読売新聞との共同企画「シリーズ原点・繰り返さないために」。

NIBと読売新聞西部本社の共同企画では同じ人物を取材し、証言や思いを映像と記事でそれぞれ伝えます。

今回は『食』を通して、平和を訴え続ける女性の思いです。です。

◆「食べるものがある」それは平和だということ

料理研究家の脇山順子さん 88歳。

戦時下の体験が、のちの人生を大きく左右します。

(脇山順子さん)
「“私たち、欲しがりません。勝つまでは” と言っていた。こんな料理は、ご馳走もご馳走。じっと見て、母がもういいから食べなさいって言われていた。でも、食べたらなくなってしまうから」

母の教えを胸に長崎の食文化の研究に努め、伝える人生を歩み続けています。

(脇山順子さん)
「いま食べているもの(がある)。こうして食べられること、これが平和。毎日平和で暮らしていける。当たり前に生きることが平和だと思う」

◆普通の夏休みが一変した「あの日」 


(脇山順子さん)
「80年前に、私が小学校3年生の時に、家族でここに住んでいた。8月9日の原爆が落ちた日もここにいた。そのまま残っている」

80年前の『あの日』。

脇山さんは、当時の国民学校の3年生。

父を病で亡くし、母・敏子さん、2人の兄、6歳の妹、そして4歳の弟の6人で、この家に暮らしていました。

(脇山順子さん)
「家財道具も何もないけどね。玄関があって、階段があって、お台所があって。それはもうそのまま。
子どもだったから、もっと広ーい感じはしていたけど。こんなもんだったのかな」

8月9日は夏休み。母 敏子さんは働きに出かけ、爆心地から約3.3キロの、この鳴滝町の自宅で、きょうだい5人で留守番をしていた時でした。

(脇山順子さん)
「飛行機の音がする。日本機かな?警戒警報だからねと言っていた」

強烈な閃光と爆風の後、2階にいたはずの5人は、気づくと1階の玄関に…。