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"食は命なり" 料理研究家が語る原爆の記憶 食べ物を通じて次の世代につなぐ「平和の尊さ」《長崎》

2025年4月9日 6:45

(脇山順子さん)
「ふわーっと爆風とともに、みんな(玄関に)ポーンと吹き飛ばされたんでしょうね」

全員大きなケガはなく、脇山さんたちは無我夢中で近くの防空壕に逃げ込みました。

◆今も脳裏に焼き付く “地獄のような光景と臭い”

そこにはすでに、多くの人が身を寄せ合って避難していました。

(脇山順子さん)
「1番下の弟がその当時は4歳。母はいないし、4歳の弟の面倒を見ていた。真っ暗なので怖いからおしっこ行こうって。行きたいと言って泣くと、周りにいる人たちが泣き止ませて、静かにさせてと言われるから何度も外に連れ出した」

当時、県立高等女学校で家庭科教師として勤めていた敏子さんも無事でしたが、原爆で大やけどを負った生徒の手当てを必死に行っていたため、きょうだいが母と再会できたのは、翌朝のことでした。

(脇山順子さん)
「大丈夫というより、お互いがそこにいることが安心。言葉には出ないけど、よかったねという結束の気持ち、安心感はあったと思います」

自宅に戻りながら目の当たりにした、地獄のような光景…。

人が焼けた独特の臭いは、今でも忘れられないといいます。

◆食を通して伝えたい「平和の尊さ」

「食べたい」という言葉を口に出す事すら、禁じられていた当時。

母が教えてくれた『食』は、脇山さんにとって料理研究家としての "原点" です。

今では、長崎女子短期大学で調理学や食育学を教えるなど、多くの人たちに長崎の食文化の歴史を伝えてきました。

自身も経験した食糧の配給制。

食材を一切無駄にしない母の料理を、現代にも伝えます。

(脇山順子さん)
「きょうはすいとん汁を作る。戦争時代の食事で最高のごちそう」

この日、料理教室で作るメニューは「すいとん汁」。

煮干しでだしを取り、ダイコンやニンジンと小麦で作った団子を入れた料理です。

ダイコンの葉など、日頃は捨ててしまう部分も具材として大切に使います。

(脇山順子さん)
「絶対に戦争はみんなでやめましょう。戦争はNO。ノーモアということを言わないといけない。よろしくお願いします。頑張ってね。天国から見てるよ。じゃあいただきましょう」

教室では、単に料理のレシピを教えるだけでなく、その背景や被爆当時の思いを乗せて伝えます。

戦争を知らない世代の参加者たちも…。