「(供養のため戦死した仲間の手首を)切って焼いて持ち帰った」 戦後79年、失われつつある戦争体験者の貴重な証言
三鷹市 平和・人権・国際化推進係 山際 陽子 さん
「『次世代に生の声を残せるのは自分たちが最後の世代だ』という、自覚が強い方がいっぱいいらっしゃって、使命感や焦りのようなものを感じている。体験を語ることであればできるよって」
■配信されているものの中には、山陰にゆかりのある人も…
長崎県出身の中舘文子さんは、太平洋戦争開戦の翌年1942年、2歳のときに母の実家がある島根県松江市に疎開。
中舘文子さん
「子ども心にB-29が飛んでくると震えあがる」
しかし、戦争末期になると米軍機は松江市にも襲来してきました。
中舘文子さん
「庭で遊んでいたら空襲警報が鳴る前にごーっと飛行機が飛んできて、逃げろと言われたときは防空壕に入る暇がなくて、家の押し入れの中に(入れられて)お庭に出たら機銃掃射の弾の痕。家が焼けなかっただけ。そういうのは良かった」
松江市玉湯町を中心に狙われたこの空襲で、40人以上が亡くなったとされています。終戦を迎え、4年ぶりに故郷の長崎へ戻った中舘さんでしたが…。
中舘文子さん
「佐世保の家はもう丸焼けで焼け野原になっていました。日本に限らず世界中が平和で、みんな仲良く笑顔が絶えない毎日になってほしい」
三鷹市がこれまでに取材した戦争体験者は60人以上。年々、体験者を見つけるのは難しくなっているといいます。
三鷹市 平和・人権・国際化推進係 中塚 大 係長
「当時の体験とかを頭に浮かべながらお話しくださってると思いますので、生の表情、生の声というのが大事かなと。そこが映像化の一番のメリットなのではと思います。いかに知っていただけるかが、これからの重要な取り組みではないかと思っています」
戦後79年を迎え、失われつつある戦争体験者の声。
難波和夫さん
「私らが中国でやった戦争と同じです。戦争はいけません」