痛恨5百人置き去り アフガン退避ナゼ失敗
約500人にのぼる日本大使館のアフガニスタン人職員らを置き去りにしたまま、自衛隊が撤収することとなった日本政府の退避オペレーション。各国の中で、なぜ日本だけが「独り負け」とも言える状況に追い込まれたのか、出遅れの背景を探る。
日本テレビ外務省担当・前野全範
■8月13日カブール陥落2日前 低かった外務省の危機意識
アフガニスタンでのタリバンの進攻が報じられるようになった8月中旬。外務省や首相官邸の動きがにわかに慌ただしくなった13日に、アフガンを所管する中東アフリカ局の幹部を取材すると、「首都カブールが今すぐ陥落するという状況でもないので、中期的にいろいろなことを考えている」との返答だった。
たしかに外務省内では、この時点で既に大使館職員らの退避が検討されてはいた。ただし、想定されていたのは民間のチャーター機を使った退避オペレーション。タイミングも翌週以降という計画だった。この段階では、我々メディアも含め、外務省内の関心は翌日の8月14日から始まる茂木外務大臣のイスラエル・イランなど中東各国訪問の準備の方に集まっていた。
■8月15日 カブール陥落 退避拠点の空港が大混乱…
しかし、それからわずか2日後、15日に首都カブールはタリバンの攻勢によってあっさり陥落。在留邦人らの退避の拠点になるはずの空港には、国外脱出を求める人々が押し寄せて大混乱となり、軍用機にしがみついて落下し死亡する人まで出た。
■8月17日 大使館員が退避日本人職員12人だけUAEへ
この頃、まず問題になったのがアフガン大使館の日本人職員らの退避をどうするかという点。混乱の中、日本政府はイギリスに協力を依頼、イギリス軍の軍用機に大使館職員12人が乗り込み、アラブ首長国連邦(=UAE)のドバイへと退避した。しかし、この退避劇の裏で日本大使館や国際協力機構(=JICA)で働いていたアフガニスタン人職員とその家族約500人は、国内に取り残されていたのだった。
この時点でも、ある外務省幹部は「自衛隊機の派遣よりも、タリバンの検問で、現地のアフガン人職員らがカブール空港にたどり着けないことの方が問題だ」と語るなど、自衛隊機の派遣はそれほど具体化していなかった。
■8月20日 自衛隊派遣へ 「空港内だけなら安全」と解釈
しかし、その後、アメリカ軍が8月末のアフガンからの撤退期限を延長しないことが明らかになり、情勢は切迫度を増していく。事態が動いたのは20日・金曜日の夜。法的問題を検討する国際法局の幹部が遅くまで残って自衛隊機派遣に向けた本格的検討が行われた。法律面で最大の問題となったのが、自衛隊員の安全確保。自衛隊法上、派遣ができるのは「輸送を安全に実施することができると認められる時」に限られていたのだ。そこで外務省は落ち着きを取り戻しつつあったカブール空港について「アメリカ軍の管理下にあり、空港内だけでの活動なら安全は確保できる」と解釈、最終的に自衛隊の派遣は可能だと結論付けた。
官邸幹部の1人は、欧米各国や韓国に比べて自衛隊の派遣が遅れた原因について「この自衛隊法上のハードルがネックになり、検討と決定に時間がかかった」と指摘する。
■8月22日 先遣隊出発自衛隊の輸送機がアフガンへ
そして22日・日曜日の午後、首相公邸の菅首相のもとに外務省や防衛省の幹部らが集まり、自衛隊機を派遣する方針が確認された。この日の夜遅くには、成田空港から先遣隊となる外務省職員や自衛隊員がひそかに出国。翌23日に正式に派遣が決まり、早速、夕方には自衛隊機が現地に出発した。
■8月25日 自衛隊機が到着バスを使った輸送作戦に転換
25日には、自衛隊のC2輸送機が拠点のパキスタン・イスラマバードを経て、カブール空港に到着した。しかし、この時点でタリバンの検問を通過して空港にたどり着けた退避希望者はゼロ。政府は自力で空港に来てもらうのは難しいと判断、バスを準備した上で退避希望者に集まってもらい、一気に空港まで運ぶ作戦に転換した。
■8月26日 空港周辺で爆発 アフガン人職員らは足止め
ところが26日、バスによる輸送作戦が敢行される、まさにその時に起きたのがカブール空港近くでの大規模な爆発だった。ある政府関係者は「爆発が痛かった。空港の外は安全が確保されていないので、自衛隊が外に出て退避希望者を守りながら連れてくることもできなかった」と振り返る。
■8月27日 日本人1人を輸送自衛隊機はパキスタンへ撤退
27日になると、ようやく日本人1人を自衛隊機で退避させることに成功した。しかし、そもそも退避を希望する日本人はアフガン国内にはほとんど残っていなかった。最大の課題であるアフガン人職員らの退避は、爆発による治安悪化もあり、空港まで移動できず断念。活動期限が迫る中、自衛隊員や外務省の職員はパキスタンのイスラマバードまで撤退することとなった。
翌28日にはアメリカ軍もカブール空港からの撤退を開始、最終的にアフガン人職員ら退避希望者約500人が現地に取り残されることとなった。各国が軍用機を投入し多くの人々の退避に成功する中、「日本の独り負け」と言われても仕方のない結果だった。
■幹部ら「遅かったと思わない」反省点・改善点との真摯な向き合いを
今回の退避について。外務省は当初、オペレーションが継続していることを理由に詳しい経緯をほとんど明らかにしなかったが、外務省幹部の多くは「やるべきことはやった。自衛隊機の派遣が遅かったとは思っていない」と口々に繰り返す。たしかにアフガン人職員らの退避に向けた努力が続く中、現時点で犯人捜しや、誰かの責任を追及する必要はないのかもしれない。
しかし、一方で早い段階で「問題はなかった」と決めつけてしまうことは、重要な改善点や反省点を埋もれさせてしまうのではないだろうか。次のオペレーションの教訓とするためにも、外務省をはじめ、政府には「退避失敗」という重い現実に真摯に向き合うことが求められる。