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バロン薩摩こと薩摩治郎八さんの50回忌法要と妻・利子さんの49日法要 合同で営まれる【徳島】

2024年2月22日 18:47
バロン薩摩こと薩摩治郎八さんの50回忌法要と妻・利子さんの49日法要 合同で営まれる【徳島】
かつてパリで多くの芸術家を支援し、日仏両国から勲章を贈られた薩摩治郎八さん。

その薩摩さんが、徳島県でともに晩年を過ごした妻・利子さんが、2024年1月に92歳で亡くなりました。

2月22日、徳島市西大工町の敬台寺で、利子さんの49日法要が営まれました。

この2月22日は、かつてパリで多くの芸術家を支援するため莫大な私財を投じた薩摩治郎八さんの命日でもあります。

このためこの日は、薩摩さんの50回忌法要と1月4日に92歳で亡くなった妻・利子さんの49日法要が合同で営まれました。

訪れた参列者は僧侶による読経が流れる中、2人のポートレートに向かって手を合わせました。

利子さんは1931年徳島市生まれ、25歳の時に30歳の年の差を越え薩摩さんと結婚しました。

法要には、利子さんと交流のあった友人ら約30人が参列し、在りし日をしのんでいました。


さて、芸術家たちを支援し続けたという薩摩治郎八さん、その素顔はいったいどんな人物だったんでしょうか。

1920年代のパリで贅沢三昧生きたけた外れの大金持ち、人呼んで「バロン薩摩」。

日本人画家を支援し芸術文化の振興に一役買いました。

その生きざまは、まさに映画の登場人物そのものです。

伝説の男・バロン薩摩を支えた徳島市出身の 妻・利子さん。

2人の出会い、そして数奇な人生とは。


「1920年代、花の都パリで芸術に恋に贅沢三昧生きた男、人はバロン薩摩と呼んだ」

1901年、東京にある日本一の木綿問屋に生まれた薩摩治郎八は、20歳でパリに渡ります。

ひと月の仕送りは3000万円、純銀製のロールスロイスを颯爽と乗り回し、社交界で出会った女優や絵のモデルたちと浮名を流しました。

1920年代のフランス、時代はエコール・ド・パリ。

アンリ・マティスやパブロ・ピカソなど、世界中から芸術家たちが集まっていました。

西洋画を学び始めた日本人たちも、数多く憧れのパリに留学します。

バロン薩摩は貧しい日本人画家たちを経済的に支えました。

「しかし忍び寄る世界恐慌の靴音とともに、運命は大きく揺らぎ始める。1935年には実家の薩摩商店が閉店。戦後、50歳で日本に戻ったバロンは無一文に等しかった」

「帰国後は、浅草を根城に劇場の楽屋に入り浸るようになる。そこにバロンにとって2人目の妻となるダンサーの利子さんがいた」

(妻・利子さん(当時77歳))
「邪魔になんないんですね。だから踊り子さんも平気で、そこの前で衣装変えたり。私は一生懸命やっぱりお化粧しますから、そしてそこでふっとこう、何気なく目と目が合ったんですね。差し入れがあるんです。バラの花一本であったり。お誘いくださるのは私と、もう一人の方と2人だけになって、そのうちに一人になったりして」

「バロン55歳、利子さん25歳、2人の間には太陽がいっぱい。しかし、阿波おどり見物が片道切符となる。バロンは利子さんの実家で脳溢血に倒れた。以来、74年の生涯を閉じるまで、徳島の柔らかな風に揺れた」

(妻・利子さん(当時42歳))
「私やっぱり親戚とか、主人の方の親戚に迷惑かけるのは嫌ですので、それで自分でやりましょうと思って」

「家では、いつも笑顔でいようとした。ようやく手にした洋裁の仕事。利子さんは、そのか細い腕で薩摩家の家計を支えた。バロンは利子さんがミシン一つで建てたこの家を『かわいい家だね』と、誉めたという。そんなバロンが、働き詰めの利子さんにプレゼントしたのが、思い出の地・フランスへの船旅だった」

(妻・利子さん)
「りんごを投げ込むと、底のほうまで透けて見えてるんです。紅海を通って今度はスエズ運河に着きますね」

「コートの襟を立てながら利子さんがつぶやく。『やっぱりバロンはパリが似合う…』」

(妻・利子さん)
「大変ほめ上手です。利子ちゃんはうまいねとか、この料理は美味しいねとか言ってくれるもんですから、こちらも色々本を読みまして、フランス料理も作らないといけないとか」

「決して豊かではないけれど、幸せに彩られた2人の甘い生活…晩年のバロンはほとんど家から出ることもなく、ワインレッドに暮れていく西の空をずっと眺めていた…」

(薩摩治郎八さん(当時72歳))
「日本人がね、もっと国際的になって、もう少しいばって…ということですね。日本人としての誇りを持って」

薩摩家の財産を使い果たしたことなど、バロンは微塵も後悔していません。

バロン薩摩は28歳の時、パリの国際学生都市に「日本館」を建てました。

日本から来た留学生たちの、生活の拠点となってほしい。

日本円で当時10数億円の建設費用を、全額負担しました。

2度の改修を経て、今も日本とフランスの文化の架け橋となっています。

「昭和48年4月29日、薩摩さんは春の叙勲で勲3等旭日中綬賞を受けました。民間人として国際親善に貢献したというのが叙勲の理由です。薩摩さんに日本が勲章をおくったのはこれが初めて。戦前『日本学生館』の建設をはじめ、ベルギーのルーアン大学に日本語学科を寄付するなど、日本の文化的名声を高めることに全力を尽くした薩摩さんには、遅すぎると言ってもいい叙勲です」

(妻・利子さん(当時77歳))
「600億を使った浪費した男とか、けっこう色々書かれていますけどでも、それは全て日本の栄光のためなんです、自分のためじゃないんですよ」

陶板に焼き付けられた写真は、2000年間色褪せることはないと言います。

愛する人といつまでも一緒にいたい・・・。

「この日、利子さんの元にバロンの陶板が届いた」

(妻・利子さん)
「ああ、本当に本当にいい男やねこのころ。2000年もつとなると…何度生まれ変わればまた会えるかなあ」

バロン薩摩、きれいな手をした男。

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