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純烈・新メンバー岩永洋昭 芸能界での原動力は“亡き母親の笑顔” 純烈加入は「絶対喜んでいた」

2023年1月1日 20:20
純烈・新メンバー岩永洋昭 芸能界での原動力は“亡き母親の笑顔” 純烈加入は「絶対喜んでいた」
純烈・新メンバー岩永洋昭さんの“原点”についてインタビュー
2023年から、ムード歌謡コーラスグループ・純烈に新メンバーとして加入した岩永洋昭(ひろあき)さん(43)にインタビュー。加入が発表されてからの日々について、「めまぐるしかった」と語る岩永さん。レッスンでの秘話や、メンバーからのアドバイスなど“純烈としての一面”から…岩永さんの魅力の1つ187cmの長身と鍛え上げられた体の秘密や、亡くなった母親との思い出など“パーソナルな一面”にまで迫りました。

■“避けていた”ダンスに40代で挑戦 卒業メンバー・小田井涼平からの心に残る言葉

——2022年はどんな1年でしたか?

舞台とか映像をちょこちょこやりつつだったんですけど、(純烈への加入が発表された)9月ぐらいから一気にダンスのレッスンとボイストレーニングがワーッと入ってきて、後半はめまぐるしくという感じでした。

——純烈への加入が発表された後、反響がすごかったのでは?

そうですね。(発表当日)ちょっと取材を受けてパッと携帯を見たら、何百件というメッセージが入っていて。「うぉ! こんなにか!」と驚きました。

——加入に向けてどんな準備をしていますか?

リーダー(酒井一圭さん)には、既存の曲全部はさすがに無理だから、とりあえず20曲くらい。そのうち、ダンスがあるのが13~14曲ぐらい。それだけをとりあえず頑張って(振り付けを)入れてくれと。

——これまでダンスの経験は?

ほぼほぼ、なかったですね。舞台とかでも“ダンスを…”という話が出たときには、「できるだけNGで」と(笑)。どちらかというと避けてきたので。まさかガッツリ、人生で40過ぎてやることになるとは夢にも思っていなかったんですけど。でも、新しいことを40過ぎからやらせてもらえるっていうのは、ありがたいなという気持ちもありますね。

——メンバーからのアドバイスや心に残っている言葉はありますか?

僕の教育係は、後上(ごがみ)翔太くん(36)で。覚えたダンスの細かな点を聞いたりして、アドバイスしてくれていて。白川裕二郎さん(46)は、「大丈夫だよ、大丈夫だよ」って(笑)。そこは安心しますけどね。リーダーの酒井一圭さん(47)も、「俺らも振り間違えるときもあるし。とりあえず一生懸命やってくれれば」と。

(2022年いっぱいで)卒業された小田井涼平さん(51)とは色々話したんですけど、僕っていうよりも「家族、大丈夫?」って。(イベントやコンサートなどで)ほぼほぼ会えなくなるじゃないですか。元々、そういう話は家族でしていたので「大丈夫ですよ」みたいな話をしました。

■岩永洋昭の魅力は“ジムに通わず鍛え上げた肉体美”

——岩永さんの魅力の1つが“鍛え上げられた体”。その原点は?

元々、モデルが(芸能界に)入るきっかけだったので。(体が)唯一の商売道具であるわけじゃないですか。身長は、親に感謝。あとは自分の努力でなんとでもなるから、というのをモデル時代の(事務所の)社長に言われて。そこは最低限、イチローがグローブとかバットを大事にするように、体をケアも含め大切に磨きながら、というのが今でも残っているので。

——どのくらい鍛えられているのでしょうか?

かれこれ20年以上(トレーニングを)続けています。ジムには行かないで、部屋とその辺の公園とかで走ったりしながら。ルーティンですね。必ずやるようにはしています。

——2023年、純烈ファンにどんな姿を見せたいですか?

少しでも早くなじめるように。ファンの方との距離も近いじゃないですか? そこは純烈に入った以上、ファンの方に喜んでもらえるように頑張っていくしかないです。

■岩永洋昭を表す “4つのピース” 『波佐見町』『高校受験 失敗』『モデル スカウト』『母親』

さらに、岩永さんの個性を深掘りするため、自身を表す“4つのキーワード”について質問。出身地・長崎での秘話や、母親とのエピソードを教えてくれました。

——1つ目のピース【波佐見(はさみ)町】

波佐見町っていうの、長崎県の僕の生まれ故郷なんですけれども。長崎県の市町村で唯一、海に面していない町なんですよ。僕を育んでくれた町なので、(純烈として)もし機会があれば行けたらうれしいなぁと勝手に思っていますね。

——2つ目のピース【高校受験 失敗】

人生で初めての挫折というか、高校受験に失敗して。滑り止めで受けていた佐世保市の私立の学校に行ったんですけど。僕、小・中サッカー部だったんですけど、高校入るときに180cmくらい身長があって。高校1年のときの担任の先生がバスケ部の監督で、「お前入れよ」ってすごく言われて。(第一志望だった高校に)落ちて、佐世保市に行ったことでぶわっと世界が広がって。ましてや、そこに行ってなかったらバスケも絶対やっていないですよね。結局、大学までがっつりバスケやりましたし。

自分が親になって子どもとかにも、“失敗は悲しいかもしれないけど、そこからさらに広がるものもいっぱいあるんだ”っていうのを自分の経験談として伝えられるかな、っていうので。いまだに「落ちてよかった」と本当に思います。

——3つ目のピース【モデルスカウト】

ちなみに、大学も第一志望は落ちたんですけど(笑)。福岡に大学で行くんですけど。そこで天神という繁華街を歩いていて、モデルにスカウトされたのがこういう業界に入る最初のきっかけですよね。それまでは、芸能人になりたいと思ったこともなかったんです。最初“お金とられるのかな”って思いました(笑)。“福岡、怖っ!”って思いながら(笑)。

——興味がなかった芸能界で、なぜ「頑張ろう」と気持ちが変化したのですか?

雑誌とか九州内ですけどCMとか、ちょこちょこ出たりしていたんです。それに出ることによって、親とか周りの友達とかが喜んでくれた。僕、本当はすごい緊張しいで、人前とか本当は得意じゃないんですよ。でもやると、そうやって喜んでくれる。それが生きがい…というとやらしい言い方かもしれないけど、でも本当なんです。

■岩永さんが大切にする“喜ぶ顔が大好きだった“母親の存在

——4つ目のピース【母親】

3年前に他界したんですけど、僕が生まれる前に離婚したので。一人っ子だったので“母一人 子一人”で、高校出るまでは波佐見町で一緒に住んでいました。(テレビやCMなどに)出てみんなが見てくれる、っていうのがやっぱり一番上には母親がいたんです。バスケやっていたときも、めっちゃ見に来てて。母親が喜ぶ顔を見るのが大好きだったんです、小さい頃から。“自分以外の人を喜ばせる”っていうのは母親が教えてくれたかなと思います。

——“純烈に加入する”という報告がもしできていたら、どんな反応をされたと思いますか?

まだ生きているときに、大江戸温泉に(2018年に岩永さんが限定で純烈のライブにメンバーとして)行かせてもらったときに「純烈、どう?」って言ったら、(母親が)「私は別にそんなに好きじゃないかな」って(笑)。ちょっとひねくれ者だったところもあるんですよね。でも、絶対喜んでくれていたと思いますよ。母親の姉が長崎に住んでいて、(純烈への加入が)発表になった翌日、スポーツ紙を「買いに走った」って言って。それを墓前にお供えして、「お母さんには伝えておいたよ」って言ってくれて。(母親は)絶対喜んでいたと思います。