【戦後79年】学生たちの戦争「みんな死にに行くんですから」学徒兵として特攻隊員を見送った102歳の証言
8月15日は79回目の終戦の日です。戦争の記憶を後世にどうつないでいくのか、シリーズでお伝えしています。FBSでは、突然徴兵された当時の大学生たちの取材を続けてきました。生きて帰ることを許されない特攻隊員たちを見送った102歳からのメッセージです。
79回目の終戦の日。福岡武道館では戦没者の遺族が追悼の祈りを捧げました。
1941年12月8日、太平洋戦争へと突入した日本。戦局は悪化の一途をたどり、戦争末期には、生きて帰ることを許されない「特攻作戦」が行われました。
爆薬を搭載した魚雷に乗り込み、突撃する特攻兵器「回天」。当時の九州帝国大学から出征した水井淑夫(みずい・よしお)さんは、回天特別攻撃隊の隊員となりました。出撃前に母親が面会に訪れた際の日記が残されています。
■水井淑夫さんの1944年3月26日の日記『第二集 きけ わだつみのこえ』より
「久方ぶりに母上とお会いする。めっきり老けられたるに驚く。 最後にお別れのさい、元気らしく別る。母さま、お達者で。」
水井さんは敵の輸送船に体当たりし、23歳で戦死しました。終戦のわずか5日前でした。
神奈川県の介護施設で暮らす三田村鳳治(みたむら・ほうじ)さんは、102歳です。
■三田村鳳治さん(102)
「それ(特攻)をやらないとしゃーないのは、ほとんど学徒兵。かわいそうですよ。」
東京の立正大学から出征し、陸軍で特攻機の整備を担当しました。宮崎県都城市にあった飛行場では、出撃直前の特攻隊員に無事を祈る思いで、桜の花を渡しました。
生きて帰ることを許されない戦友を、何人も見送ったといいます。
■三田村さん
「戦争に行くのも大変だけど、送る方だってつらいですよ。特攻の操縦士が時々(整備を)見に来るんですよ。見ていられないです。かわいそうでね。必ず言うのは“お世話になりました”って。操縦士が。まさか、武運長久なんて言ったって帰ってこないんだから、言えない。みんな死にに行くんですから。」
三田村さんが突如、徴兵されることになったのは、大学生だった1943年の秋でした。「学徒出陣」です。
東京の明治神宮外苑競技場では、徴兵される大学生たちの大規模な壮行会が行われ、関東一円の大学などからおよそ2万5000人が参加しました。
兵力不足を補うため、当時の東條内閣がそれまで徴兵を猶予されていた、理工系や医学系などを除く大学生たちに白羽の矢を立てたのです。
当時は高等教育機関への進学率がおよそ3%とされた時代です。大学生たちは国の将来を担うエリートとして、学問を究めることを期待されていたはずでした。
「生等(せいら)もとより、生還を期せず」
■学徒代表
「学徒出陣の勅令、公布せらる。生等(せいら)もとより、生還を期せず。」
■東條英機首相(当時)
「万歳。」
出征した学生は、全国で10万人を超えるとも言われています。
三田村さんも、壮行会に参加していた一人です。はじめから生きて帰るつもりはない。学生の代表が述べた、そんな意味の言葉が今も、脳裏に焼きついているといいます。
■三田村鳳治さん(102)
「生等(せいら)もとより、生還を期せず(=はじめから生きて帰るつもりはない)でしょう。ちょっと声を落としましたよ。これはもう。帰れないと思った。やっぱり国のために死ぬんだなと思った。」
僧侶である三田村さんは、戦死した特攻隊員たちの慰霊を続けながら、戦争を繰り返してはならないと訴えてきました。生き残った使命を尽くしたい。そんな思いからです。
■三田村さん
「我々、なんのためにみんな死んでいったのか分からない。あの当時は自分たちがなんとかして国を守ろうと、おやじやおふくろを助けようと、ああしていちずに死んでいったんでしょう、みんな。上官の命令は天皇の命令、我々は天皇陛下の命令と言われたらどうしようもない。勉強をしたくてもできない。何かになりたくてもなれない、そんな時代ですよ。」
国のために命を懸けることが当たり前とされた世の中に戻ることがあってはいけない。多くの仲間を失った生き証人からのメッセージです。
FBSでは、学徒出陣の“生き証人”や遺族に取材を続け、国のために戦うことを強いられた学生たちの無念と教訓を伝えるドキュメンタリー番組を制作しました。
NNNドキュメント「学生たちの戦争~学徒出陣 ペンを銃にかえられて」18日・日曜日深夜放送です。