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太平洋戦争終戦から80年  故郷・硫黄島には帰れない・福島

2025年3月27日 5:55
太平洋戦争終戦から80年  故郷・硫黄島には帰れない・福島

太平洋戦争末期多くの犠牲者を出した激戦地、硫黄島での戦いが終結してから26日で80年です。
この島で生まれ、今は大玉村に住む男性の戦争の記憶とふるさと硫黄島への思いを伝えます。

■大玉村 齋藤信治さん(89)
「こっちが南ね、これが摺鉢山。これ南、南部落ってここにいたんだ。これね…ここ家!」

大玉村で暮らす齋藤信治さん(89)
齋藤さんが生まれたのは、東京23区から1千2百キロほど南に位置する硫黄島。

この島では、80年前の1945年2月から3月にかけ日米の激しい地上戦が行われ旧日本軍の兵士約2万1千900人が亡くなりました。

戦前は1千人を超える人が暮らしていた、硫黄島。
齋藤さんも祖父の代からこの島で暮らしていました。

■大玉村 齋藤信治さん(89)
「何も生活には苦労が無かったですね。サトウキビ、砂糖しめてたから、しめるっていうのは作るってことね、製造してたんです」

8人兄弟の次男だった齋藤さん。
大家族のなかで穏やかな毎日を送っていました。ところが…

■大玉村 齋藤信治さん(89)
「3年生になったころに、戦争が激しくなってきたね」

齋藤さんが8歳の時、日常は一変します。

■大玉村 齋藤信治さん(89)
「飯食べて防空壕に入るわけだ、警戒警報で、入ってそこで一晩暮らすわけ。ヒューンヒューンっていう風を切るような音が聞こえてくる。もう怖かったね」

毎日のようにアメリカ軍の船から撃たれる大砲を防空壕の中で凌いでいたといいます。
そして、1944年の夏。島民のほとんどが強制疎開を余儀なくされました。

■大玉村 齋藤信治さん(89)
「夕方引き上げて船に乗った時にね、自分なりに思った。これもう硫黄島に帰れないかなと」

疎開先でも何度も空襲に遭いました。

■大玉村 齋藤信治さん(89)
「グラグラ~ってきたのね。ものすごい匂い、ガスの匂い」

周りに爆弾が6発落ちて、周りがみんな生き埋め。爆弾っていうのはね、音すると思うでしょ?近くに落ちる爆弾っていうのは音しないんだよ」

島を離れ1年が経った1945年の夏に終戦を迎えます。
それから23年後…硫黄島はアメリカから日本に返還。齋藤さんは32歳になっていました。

■大玉村 齋藤信治さん(89)
「それは嬉しかったね、こんな嬉しいこと無かったよね。負けて取られても、死ぬまでに一回は硫黄島に帰ると、硫黄島の土を踏んで死ぬという気持ちが子どもなりに起きてたね」

しかし、突き付けられたのは残酷な現実。

■大玉村 齋藤信治さん(89)
「帰島はできないっていうこと、不発弾とか遺骨収集とか隆起するとかうんぬんでね」

この80年、日本政府は島に自衛隊を常駐させる一方で、火山活動などを理由に元島民が島で暮らすことを認めていません。

齋藤さんら、元島民が島に立ち入ることができるのは年に数回、決められた日のみ。
希望者全員が行けるわけではなく参加人数も限られます。

専門家は国に返還された後も元島民が島で暮らせないことは安全面以外の思惑があると指摘します。

■明治学院大学 社会学部 石原俊 教授
「返還後、島民が帰れないのは法的根拠があることではなく、法的根拠は曖昧なんだけれども、行政措置によって帰らせない。小笠原群島も硫黄列島も日本の敗戦後、米軍が秘密基地化しますよね。現在は自衛隊基地ですよね。島をまるごと軍事基地にして島民を帰さないっていうところは、第二次世界大戦中から80年以上も1つの島の島民がずっと軍事上、安全保障上の理由から丸ごと帰れない。私は世界で他に聞いたことが無いです。」

長年、元島民やその子孫たちが国への要望や陳情を続けていますが、いまだに島に定住することは認められていません。

それでも…

いつか再び島で暮らせる日が来ることを齋藤さんは願っています。

■大玉村 齋藤信治さん(89)
「帰りたいけど帰れないって気持ちがある。現実が分かってるから、帰ってもしょうがないなって諦めはしてきました。色んなとこ行きましたけどね、硫黄島は、頭から外れませんね。今も帰っていいって言われたら帰ります」

最終更新日:2025年3月27日 6:01
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