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【回顧2023】教材から消えた『はだしのゲン』 ゲンと関わる人たちの証言

2023年12月28日 17:00
【回顧2023】教材から消えた『はだしのゲン』 ゲンと関わる人たちの証言

この1年を様々な角度から振り返る「回顧2023」です。今回は、広島市教委の平和教材から、その引用が消えたマンガ「はだしのゲン」と、それに関わる人達の証言です。

平和大通りにある多くの慰霊碑のひとつ「無名戦士の碑」。内部には、反戦を訴えた人たちの名前を刻んだ銅板がある。

その一人・中沢晴海さん。抱えられた子どもは、マンガ「はだしのゲン」の作者で、幼き日の中沢啓治さん。1973年6月、「週刊少年ジャンプ」で連載開始。主人公のゲンは、中沢さん自身がモデル。自らの被爆体験を綴った。

<第1の証言者>中沢ミサヨさん

結婚してからは、妻がアシスタントを務めた。広島出身の中沢ミサヨさんは、81歳。

■中沢ミサヨさん
「ど素人。漫画をどうやって書いているか、全然知らなかった。結婚して、はじめて主人が描いているのを見て。」

中沢さんが原爆を描き始めるきっかけは、「原爆症」で苦しんだ母親の死だった。その7年後、「はだしのゲン」の連載が始まる。

■中沢ミサヨさん
「古本屋に行って、歴史的な物、資料を、何回も通って資料探しまくって描いていましたね。はだしのゲンを描くときは、本当に普通の漫画とちがって、真剣勝負です。」

<第2の証言者>森重昭さん

第2の証言者は、被爆者の森重昭さん、86歳。被爆して亡くなった、アメリカ人捕虜の調査と慰霊を続けてきた。連載開始50年となった「はだしのゲン」については。

■森重昭さん
「畑を耕している(アメリカ人捕虜)ということは、神奈川県あたりであった実話。中沢さんはヒントを得て、描かれたのではないか。(被爆して)死んだあと、みんなに石を投げられたと、間違いなく現実にあったことを中沢さんは描いている。」

その一部を掲載した平和教材による授業が始まったのは10年前。小学3年生向けだった。教材は「ひろしま平和ノート」。引用したのは、ゲンの家族が原爆に命を奪われる場面だった。2023年度、教材からそのページは消えた。

<第3の証言者>江種祐司さん

第3の証言者は、「原爆被爆教職員の会」で会長を務める江種祐司さん、96歳だ。

■江種祐司さん
「子どもにとって目を引き、あぁそうだったのかと感じさせる。もっとも強烈なものは、やっぱり『はだしのゲン』じゃないですかね。」

音楽教師として中学校の教壇に立ち、被爆体験を語りながら平和教育にあたった。

■江種祐司さん
「原爆教育じゃない。もっと広く平和教育なんだということに、変わっていくわけです、中身がね。それから、平和教育の運動が始まる。」

1969年、被爆した教師らが作った副読本「ひろしま」。戦争責任にも言及している。内容は、被爆地・ヒロシマと戦争の関わりや、日本の被害・加害の両面に及ぶ。例えば、「すべての物を奪いつくす」「すべての物を焼き尽くす」「そして殺しつくす」の実態…

■江種祐司さん
「教育というのは、とにかく本当のことを直接的に子どもたちに伝えることが、そういう教材を選んで子どもたちに渡すということが、ものすごく大事なことなんですから。」

そして、戦争加害に触れていない「平和ノート」については。

■江種祐司さん
「一番肝心なことが抜けている、全部。本物の平和教育は、こういう上っ面のものではできません。」

<第4の証言者>清水潔さん

第4の証言者は、真実を追い続ける人物。ジャーナリストの清水潔さんだ。清水さんは、日本軍が多くの市民らを殺害したとされる「南京事件」を取材してきた。その基本は現場主義。自らの足で事件の現場を訪れ、残された日本兵の日記や生前に撮影されたインタビューで、真相に迫った。

清水さんも、子どものころ『はだしのゲン』を読んでいた。

■ジャーナリスト清水潔さん
「平時であればお勉強ができる人、出世している人が非常に評価されている社会。戦時になると、ちょっと違った方が自分の言うとおりに社会を動かしたり、注目を浴びることができる。腕力が強い人、声が大きい人が出てきて、いろんなことを言い出す。そういう描写が強くあった。」

■清水潔さん
「差別の話がよく出てくる。差別が戦争のはじまりになるんだと。『おまえたちはだまされちゃいけないよ。朝鮮や中国の人と、仲よくするんだ。戦争を避ける方法はそれしかないんだ。』というコマがある。僕は、そこが忘れられない。」

『はだしのゲン』は、戦時下の日本軍による加害行為も描いている。

■清水潔さん
「外務省のホームページにも、正式に認めています。日本軍が、南京を陥落するときに、非戦闘員を含めて、多くの人を殺害したことは事実だと、今もきちんと書いてある。日本がいかに大変か、日本人がひどいめにあったっていう部分だけではなく、なぜこんな戦争がおきたのか、なぜアメリカはここまでひどい仕打ちを日本に続けたのか、という部分を知って欲しいという思いがあったのでは。僕自身も、そういう報道が必要と考えています。」

自らの被爆体験と、戦争加害を綴った中沢啓治さんとは。

■清水潔さん
「戦争とか原爆とか、究極の恐怖、地獄を見てきた方じゃないですか。そういう人は強い。戦後、絶対だれが言おうとおれは言う、おれは描く、強い思いがあったのでは。そこは漫画家として、ジャーナリズムに通じるところがある気がする。」

記憶をたどり、身を削りながら戦争に対峙し続けた中沢さん。そんな夫を支えたミサヨさんは。

■中沢ミサヨさん
「家がペチャンコになったシーンがあるでしょ。つらいなぁと言っていた。父親の顔描くとき、思い出すんでしょうね。これが自分が受けた原爆の姿ですから、子どもたちに伝えたい。2度と繰り返してはいけない思いがあった。主人としては本望だと思う。」

中沢さんが亡くなって11年。そして、教材から消えた『はだしのゲン』。それでも、ヒロシマの記憶を繋ぐ営みが途絶えることはない。