×

「最後の言葉は?」熊本から沖縄に出撃 113人が戦死した特攻隊「義烈空挺隊」遺族の思い

2024年5月29日 19:50
「最後の言葉は?」熊本から沖縄に出撃 113人が戦死した特攻隊「義烈空挺隊」遺族の思い

太平洋戦争末期、熊本から出撃した特攻作戦がありました。任務に当たったのは「義烈空挺隊」。113人が戦死した特別攻撃隊を語り継ぐ資料館と、そこでつながった遺族に話を聞きました。

菊池市泗水町にある菊池飛行場ミュージアム。その一角には、健軍飛行場から出撃した特攻隊「義烈空挺隊」についての資料が常設展示されています。
■菊池飛行場ミュージアム 永田昭館長
「熊本で唯一出撃した特攻隊が義烈空挺隊です。熊本である以上は、皆さんに知ってほしいということで展示を始めました」

「義烈空挺隊」は、太平洋戦争末期のアメリカ軍に占領された沖縄の飛行場を攻撃するために編制された特別攻撃隊です。

健軍飛行場で隊員14人ずつが乗り込んだ重爆撃機12機が、沖縄の飛行場に強行着陸した後、隊員が手りゅう弾などで敵の飛行機や施設を破壊するという作戦でした。

健軍飛行場の滑走路は、今の熊本赤十字病院付近にあったということです。また陸上自衛隊健軍駐屯地には、当時の飛行機整備場だった建物が今も倉庫として残されています。

義烈空挺隊は、終戦の3か月前となる1945年5月24日午後6時40分、健軍飛行場から出撃。しかし、隊員を乗せた12機のうち4機が故障のため引き返したため、残る8機が突入しました。

多くの飛行機は撃墜されましたが、少なくとも1機は強行着陸に成功し、隊員がアメリカ軍の飛行機を破壊しました。突入した8機に乗っていた隊員は全員、帰らぬ人となりました。

5月26日、今年も義烈空挺隊の慰霊式が健軍駐屯地で開かれました。義烈空挺隊に参加した県出身の兵士は2人。

八代市の吉野キヨミさん。母方の叔父稲津勝さんを亡くしました。
■吉野キヨミさん
「胸がいっぱいです」

菊池市の宮本恵理さんです。祖父の弟、宮本忠一さんを亡くしました。
■宮本恵理さん
「いろんな思いを抱えて24日に出陣したのかな」

吉野さんと宮本さんは4月、菊池飛行場ミュージアムを通して初めて知り合いました。

■菊池飛行場ミュージアム 永田昭館長
「2人は別々に来られたんですけど、お互いが全くご存じない。ぜひ、じゃあお会いしてお話して、今後もつなげていきたいとの思いもありまして、お会いしていただきました」

吉野さんは、菊池飛行場ミュージアムを訪ねたことで、叔父・勝さんの最期について詳しく知ることができました。
■吉野キヨミさん
「誇らしい叔父だなと思って、後世に伝えたいと思ったんです」

吉野さんは慰霊式への出席や叔父のことを調べる時に、よく娘や孫を伴います。
■吉野キヨミさん
「自分から行くって、連れて行くというんですよ」

孫にも勝さんの生きた証を伝えたいと願っています。
■孫・吉野雄志さん
「私は38歳なんですけれども、25歳で戦争に行かれたということがすごく悲しい。これからの人生もしっかりと生きていかないとと思っています」

■菊池飛行場ミュージアム 永田昭館長
「若いお孫さんの世代の方々が、それぞれ興味を持たれて動かれているのが、私は大きいんじゃないかと思っています」

もう一人の県出身の義烈空挺隊員、宮本忠一さんの遺族宮本恵理さんも孫の世代です。宮本さんも吉野さんと同じく、鹿児島の知覧の慰霊式に出席していましたが、遺族同士の交流は初めてだといいます。
■宮本恵理さん
「吉野さんも実際には叔父さんとお会いしたことはない、『本当はこうだったんじゃないですかね』という、年齢は離れているんですけど、思い馳せることは一緒といいますか」

恵理さんは、小さな頃から知覧での慰霊式に付いて行っていたそうですが、父親が亡くなり、大叔父の忠一さんのことを聞く機会が失われました。大叔父がどんな人で、義烈空挺隊とは何だったのか…。
■宮本恵理さん
「写真でしか会ったことはないですけど、どういう生き方をしたのかとすごく思います」

しかし辞世の言葉が残ったり、最期の様子が記録されたりするのは将校クラスの軍人で、下士官クラスの情報は多くありません。
■宮本恵理さん
「実際にそれに、じゃあ、みんながわーってやるぞっていう、みんながそうだったのか、はたまた、もしかしたらその中でちょっともう行きたくないけどなって思っている人もいたんじゃないかなって思ったりもするので、いろんなかたちで情報を知ることができたらと思います」

吉野さんは、終戦から3年ほどが経った頃、義烈空挺隊の戦友が家を訪ねてきたことを覚えています。
■吉野キヨミさん
「生きているのが申し訳ないと言われました」
Qその時、何かお話になったことって覚えていますか?
「覚えてないんですよね」

この時は、語られた思い出を「覚えていない」と答えた吉野さん。しかし健軍での慰霊式の日、取材の最後に、実は覚えていたことを明かしてくれました。
■吉野キヨミさん
「あの時、どんなことを話されましたか?ということを私は言えなかったんですけど、あの時は私、質問したんですよ。『最後の言葉はどんなんだったですか』と聞いたら、その生き残った方が『故郷の方に向かってお母さんだった』と言われました。天皇陛下万歳とかそうじゃなくて、やっぱり一人の人間だったと思いますね。それだけ言い残したものですから、これを言っていいのかなと思ったもんで言えなかったんですよ」