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【特集】「人間は神にも悪魔にもなれる」 世界で争いが絶えない中、当時10代の戦争経験者は今何を思うのか・・・ 鳥取県

2023年12月30日 6:44
【特集】「人間は神にも悪魔にもなれる」 世界で争いが絶えない中、当時10代の戦争経験者は今何を思うのか・・・ 鳥取県

太平洋戦争のきっかけとなった旧日本軍による真珠湾攻撃から12月で82年です。

当時の日本では10代の若者さえも戦場へ駆り出されていました。いまだ世界で争いが絶えない中、山陰にいる当時10代の戦争経験者は、今何を思うのか、取材しました。

■14歳で今の中国東北部「旧満州」に渡った男性

"大陸で大地主になる"戦時中、10代半ばで日本を離れた若者たちがいます。満蒙開拓青少年義勇軍。大陸で待ち受けていたのは過酷な運命でした。

鳥取県伯耆町。幅田義規さん96歳です。幅田さんは地元の高等小学校(今の中学2年生)を卒業した1942年、14歳で今の中国東北部「旧満州」に渡りました。

農業移民、「満蒙開拓青少年義勇軍」に入隊したのです。

幅田義規さん
「燃えるような気持ちで"満州という国は素晴らしい""これからの国だ"というそこを開拓するんだ。海外に進出する野望、華々しい時代ですけんね」

満蒙開拓青少年義勇軍は太平洋戦争前の1938年から終戦にかけて、10代半ばの若者を対象に実施された国策です。入植先では20町歩の土地が約束され、家が貧しかった幅田さんもこれに志願しました。
※1町歩=約1ヘクタール

しかし、そこで待っていたのはー。

幅田義規さん
「銃剣術もやりました。ほふく前進して銃を撃つとかね、いわゆる軍事訓練です。辛くて脱走して帰った連中もおります。特に境なんか20人ぐらい集団で脱走しましたけんね」

義勇軍たちの本来の役割は国境の警備。隣接する旧ソ連から満州を守るため、厳しい軍事教練も行われました。そして太平洋戦争末期の1945年8月9日。ソ連軍による満州侵攻が始まったのです。

幅田義規さん
「大きな家みたいな戦車がきました。日本の戦車は小さいものですから。家が来るかと思って初めて見たときはびっくりしました。戦意は喪失するでしょう」

ソ連兵や現地住民からの襲撃で逃避行を余儀なくされた若者たち。義勇軍以外にも日本からの入植者は多く、なかには追い詰めらた末にー。

幅田義規さん
「奥さんと子どもでした。子どもを背負いながら道路を歩いていて、途中で子どもは死んだのか(母親が首を絞めたのか)今でもまだ思い出します」

終戦後、幅田さんはソ連軍の捕虜となり、シベリアに抑留されました。

極寒での強制労働の日々、食糧もわずかなものでした。

幅田義規さん
「こんな缶に汁が入っていて、米ではなくアワかコウリャンの粒が入ったそれだけの食事。本当にたくさん死にました毎朝」

過酷な抑留生活は実に4年間続きました。夢に見た広い農地での開拓の日々。鳥取県からは2287人の若者が義勇軍として満州へ渡り、87人が命を落としました。

幅田義規さん
「恨みというか怒りがありますね。愚かなことだと思います。戦争に正義が云々というけど、ウソです」

■戦争で親友を失った男性

決して忘れることできない記憶。

鳥取県境港市にも、10代で戦火へ飛び込んだ男性がいました。松下薫さん94歳です。

松下薫さん
「この曲を弾くといつも(親友の)久保のことを思い出す。本当に悲しい歌だ」

松下さんは海軍の飛行予科練習生に志願。太平洋戦争末期の1945年3月、長崎県にある大村海軍航空隊へー。

松下薫さん
「今では考えられないかもしれないけど軍国少年というのは多かったんです。今だったら若くして軍隊に入って苦労しなくて良いというけど当時は空気が違うんですよ」

松下さんが搭乗することになったのが、夜間戦闘機「月光」。夜になって襲来してくる米軍機を迎撃することが任務でした。

松下薫さん
「ボンボンボンボン!私たちの機関砲が当たって破片が散るけど貫通できない。1機も落とせませんでした。はっきり言うと」

3回に渡って米軍機と対峙した松下さん。しかし、砲弾を命中させても撃墜には及ばず、なすすべがありませんでした。隊員には捨て身の作戦が課されることにー。

松下薫さん
「250キロの爆弾をここに括りつけるわけ半分の燃料をつけて『行け!』特攻に行く覚悟は私はできていませんでした」

爆弾を抱いて敵艦に体当たりする「特攻」です。やがて松下さんも特攻要員に組み込まれました。

松下薫さん
「『松下、特攻隊は夜中じゅう寝ずに起きているんだぞ』と言われた。じっとして起きている。なぜかというと寝るのが怖い、寝てしまうと朝になってしまうじゃないですか。声をかみしめて『お母さんー』 とつぶやく子が多い」

次々と先発していく友人たち。出撃の前夜には、地元の女学生が訪れ、"仰げば尊し"を歌い激励しました。忘れられないのが、一番の親友との別れ。

松下薫さん
「『久保』というおぼっちゃん。お父さんは大銀行の支店長でおっとりした良い子だった。飛行隊長が『かかれ!』というと飛行機に走っていくわけうちの久保も走って行った、それが私が見た(久保の)最後の姿でした。あの時はさすがに私もこたえましたね」

1945年8月15日、終戦。松下さんが出撃することはありませんでした。死ぬことが前提の"特攻"。海軍だけで4000人が飛び立ち、若い命を散らせました。

松下薫さん
「人間は神にもなれる悪魔にもなれる、本当ですよ。人への思いやりなど日本人の持っている良い本態を失わないようにするのが世界平和への第一歩じゃないかなと私はそう思いますよ」

今回紹介した幅田さんや松下さんのように、戦争体験をされている方が年々、本当に少なくなっています。その一方で今も世界中で戦争が続いています。

こうした先人の貴重な意見に耳を傾けて、一人一人がこれまで以上に平和と向き合っていかなければなりません。