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震災後に一家離散…児童養護施設で育った男性が約20年ぶりに兄と再会 2人で初めての墓参り「来年からは毎年来ましょう」母子寮で死亡した母に笑顔で報告【阪神・淡路大震災から29年】

2024年1月17日 19:02
震災後に一家離散…児童養護施設で育った男性が約20年ぶりに兄と再会 2人で初めての墓参り「来年からは毎年来ましょう」母子寮で死亡した母に笑顔で報告【阪神・淡路大震災から29年】

 阪神・淡路大震災の発生から29年となった17日、約20年ぶりに再会した兄弟が震災で亡くなった母の墓前に立ち、初めて2人が並んで手を合わせました。

「来年からは毎年来ましょう」

 震災後、児童養護施設に預けられ、一時は「一人で生きていく」と決意した男性と、弟に何もしてやることができなかったという責任感と罪悪感に苛まれてきた兄…男性は「29年前に止まった家族の時間がやっと動き始めた」と語りました。

■「周りの人に支えられて」遺族代表として感謝を述べる男性…涙を浮かべながら見つめる兄

 地震発生時刻の午前5時46分過ぎ、神戸市中央区で行われた追悼行事「1.17のつどい」で、鈴木佑一さん(34)は、今年の遺族代表として「追悼のことば」を話し始めました。語られたのは、この29年間の壮絶ともいえる半生でした。

 鈴木佑一さん「地震で建物が倒壊して私は生き埋めになっており、知らないたちが私を助け出してくれて、靴を渡してくれました。母はそのとき すでに死んでおり、兄は無事でした。震災後、2人は父親のもとに引き取られたのですが、私だけが児童養護施設に預けられました。その日から私と家族との時計の針は止まりました」

 時折、涙声になりながらも語り続ける佑一さん。

 マイクの前に立つ佑一さんの姿を見つめる男性がいました。鈴木さんの兄・一馬さん(42)です。一馬さんの目にもまた涙があふれれていました。

 2人は去年11月、約20年ぶりの再会を果たしたのです。

■家庭内暴力から逃れ「神戸母子寮」で被災し母は死亡 一家は離散し児童養護施設へ

 佑一さんと一馬さんは29年前、夫の暴力や貧困などに悩む母親と子どもを受け入れる神戸市兵庫区の「神戸母子寮」で母・富代さん(当時44)と暮らしていました。富代さんは、佑一さんと兄を連れて、生活費を浪費し、酒を飲んでは暴れる父親から逃れてきたのです。

 震災により、昭和初期に建てられた木造2階建ての母子寮は全壊し、一家が暮らしていた1階は、2階に押しつぶされました。佑一さんと一馬さんは救出されましたが、富代さんは冷蔵庫の下敷きとなり、亡くなりました。

 母と住まいを同時に失った佑一さん。引き取られた先は、児童養護施設でした。父は、2人は育てられないと、兄だけを引き取ったのです。その後20歳まで施設で過ごし、1人立ちするとき、父が亡くなったことを知らされました。

 佑一さんは、施設の理事長の勧めで大学に進学し、その後、地元・神戸で会社を立ち上げ、現在は服と雑貨の輸入販売業を営んでいます。児童施設にいたころは、「一人の力で生きていかないといけない」と考えていた佑一さんは、多くの出会いとともに、「困った時は助けてほしい」と言えるようになり、周囲に感謝の気持ちをもてるようになったといいます。

■母子寮の元職員との再会をきっかけに 親族ともつながり

 佑一さんの手元にある家族のものは腕時計とマフラーの2つだけ。大学生の時に受け取った、母・富代さんの形見です。送り主は、母子寮の職員をしていた岡本由美さん(76)さんでした。

 鈴木佑一さん「『鏡で笑ったら、 僕の顔はお母さんにそっくりだよ』と手紙に書いていた。母はいつも膝の上に抱っこしてかわいがってくれていたという話だった。自分が大事にされていたということがすごく嬉しかった」

 2019年、佑一さんは岡本さんの連絡先を知り、2人は再会を果たします。これをきっかけに母のきょうだいなど、親戚とのつながりを取り戻した佑一さん。

 残された唯一の家族は、父親に引き取られた兄の一馬さん。岡本さんとは、当初は連絡をとれていたものの、佑一さんに対しては「何もしてあげられなかったことに対して責任を感じ、今更どのような顔をして会えばいいのか分からない。自分は兄として会う資格はない」と泣きながら岡本さんに電話をしたこともあったといいます。

 その後、一馬さんの電話番号が変わったため、岡本さんも連絡が取れなくなっていましたが、去年、知人の情報提供をきっかけに一馬さんの住所が分かったのです。

 鈴木佑一さん「兄も母を亡くし、悲しい中で父親と一緒に暮らし、苦労して当たり前だと思えるようになりました。そんな中で私に対しても、責任をずっと感じて今まで生きていたのだと思います」

■約20年ぶりの兄弟の再会

 兄に幸せに生きてほしい。私に何もできなかったことを悔いてほしくはない―

 去年11月末、佑一さんは一馬さんの自宅を訪れます。家から出てきたのは、一馬さんの妻・綾子さんでした。

 佑一さん「こんばんは。初めまして」
 綾子さん「初めまして。佑一くんやんね」
 佑一さん「僕、弟の佑一と言いまして」
 綾子さん「佑一くん。 ありがとうございます、訪ねてくれて」
 佑一さん「会いに来たんですけれど、今いないんですよね?」綾子さん「いま子どもとお風呂に行っていて…来ました」

 一馬さんが帰ってきました。20年ぶりの再会でしたが、2人の表情には自然と笑みがこぼれました。

 佑一さん「佑一」
 一馬さん「おお」
 綾子さん「びっくりした」
 佑一さん「会いに来てん」
 一馬さん「今は元気?」
 佑一さん「元気にしてる。とりあえず中に…じゃあお邪魔します」

 ようやく訪れた兄弟の時間でした。

 鈴木佑一さん「とにかく今は家族と一緒で元気そうで良かったです。震災が終わってからの話とか、どういうふうに生活をしていたとか、あとは岡本先生にも会いたいと言っていたので、一緒に会いたいというのと、兄は母の墓を知らないみたいなので。僕は知っているので一緒に墓参りいこうと」

■止まっていた家族の時計の針が動き出すとき

 今年の正月は、初めて一馬さんの家族と鍋を囲んだという佑一さん。

 母・富代さんの29回目の命日となった17日、遺族代表として、力強く語りました。

 鈴木佑一さん「29年前止まった 私の家族の時間が今日やっと動き始めます。よく聞かれたことがあります。あのとき震災がなかったらどうなっていたかと。私は震災で大切な母を失いました。しかし震災の後に多くの素晴らしい方々に出会い支えられてきたことも事実です。ここまで生きてられたのは本当に多くの方に支えられ、お世話になったからです。本当にありがとうございます」

 富代さんの墓前には、佑一さんと一馬さん、そして長年2人のことを気にかけていた岡本さんが並び、3人は手を合わせました。

 鈴木佑一さん「来年からは毎年来ましょう」

 3人の表情には、笑顔が満ち溢れていました。