「もう、あんな目には遭わせたくない」空襲で焼夷弾が自宅を直撃し家族が犠牲に 一命とりとめた女性が語る体験
12月、熊本市西区花園の花園小学校で行われた戦争をテーマにした劇。主人公のモデルとなったのは津下環さん(89)です。津下さんは幼い頃、小学校の近くにある柿原地区で空襲を体験しました。
熊本で初めての空襲で焼夷弾が自宅直撃
太平洋戦争後期祖母やいとこと一緒に暮らしていた津下さん。1944年11月21日、当時9歳の津下さんがいとこと遊んでいた時、アメリカ軍の爆撃機が投下した焼夷弾が自宅を直撃しました。
■津下環さん(89)
「部屋でいとこたちと遊んだらヒューって言うたけん、私は何があった?て外に出ようって走ってきて、外に出らんうちにもう家が倒れました」
この柿原地区を襲った空襲が、熊本で初めての空襲でした。津下さんは、自宅の玄関に積んであった米俵の隙間にとっさに隠れました。しかし、重たい米俵を前に今度は自力で抜け出せなくなってしまいました。
■津下環さん(89)
「(隠れた俵の隙間に)穴があったです。私は手を差し込んで、こう(指で穴を広げる)するけど、大きくはならずに。『ここにいるけ、助けて』て、一生懸命わめきましたけど、外にはわからずに。そして消防団の人たちが、あの俵をどかしよんなはったところが、髪の毛が見えたそうです。髪のちっと見えたけん、ここには人がおるって言って(助けてもらった)」
津下さんは火傷などで三日三晩寝込みましたが、何とか一命をとりとめました。
国の資料にりますと、柿原空襲では約500キロの焼夷弾が10発ほど投下され、4人が犠牲になりました。4人の中には、一緒に暮らしていた祖母と当時5歳だったいとこも含まれていました。いとこは祖母に抱きしめられるような姿で命を落としていました。
■津下環さん(89)
「親代わりになってばあちゃんが私たちを育てよったけんですね、私も悲しくて、もう何とも言えませんでした。何でこんな目に遭わにゃんかなって思いましたね」
柿原空襲を研究している専門家によりますと、爆撃機は本来別の場所を目指していましたが、燃料不足などにより、目的地にたどり着く前に焼夷弾を落としたとみられています。その場所が柿原地区でした。
子どもたちとの出会いきっかけに「機会があれば体験を話したい」
津下さんは、大切な家族を亡くしたこの場所に新しい家を建てて、今も暮らし続けています。当時の体験を誰かに話すことはほとんどありませんでした。そんな中、津下さんの元を訪ねてきたのが地元の花園小学校の児童たちでした。授業の一環で戦争について学んでいたところ、近所に住む人から津下さんを紹介され、話を聞きに来たのです。
■津下さんから話を聞いた児童
「何の関係もない津下さんの家にいきなり(焼夷弾が)落ちてきて、戦争はあってはならないと思いました。(下級生にも)花園でもこういうことがあったんだよみたいことを(伝えたい)」
■津下さんから話を聞いた児童
「無関係なのに落とされて、かわいそうだなって思いました」
地元で起きた柿原空襲を多くの人に伝えたい。小学生たちは、津下さんの体験をもとにした劇を披露することにしました。
(津下さんを演じた児童)
「昼の11時ぐらいにヒューという大きな音がして、家の中にいた私はなんだろうと思って玄関に出ようとしたら、爆弾が落ちました。玄関に積んであった米俵の下にとっさに隠れ助かりました」
津下さんも小学生たちの劇を見守りました。
■津下環さん(89)
「よく発表ができました。私が話したように話していただけました」
子どもたちとの出会いを通じて、津下さんは体験を伝える機会があれば話をしていきたいと考えるようになったといいます。
「逃げ隠れするのも大変でした。 防空壕に防空頭巾からって、もう背中から離すことはなかったですもんね。もうどこに行く時も持って行かんといかんだった。(食べ物に関しても)何でもやっぱり配給配給で。もう子どもたちも、こんな目には遭わせたくない。これから先は平和な日本でなくてはならんとも思いますね」