「おけがは大丈夫ですか」…天皇皇后両陛下「能登」訪問 視線を合わせながら被災者に声かけ
22日午後、天皇皇后両陛下は、能登半島地震で甚大な被害を受けた石川県珠洲市に到着されました。そして、避難所となっている中学校で、被災者を見舞われました。
両陛下と面会した人は…
珠洲市 橋元繁幸さん
「どきどきしながら…非常に“大きな励まし”になった思いでした」
橋元ひろみさん
「『お体を大切に』って、おっしゃっていただきました」
輪島市 岡田哲男さん
「優しいお言葉をいただきました。ほんとに感激しております」
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両陛下は、午前10時前、羽田空港から特別機で出発し、石川県に向かわれました。
元日の地震発生直後から心を痛められてきた両陛下は、被災者の気持ちや現地の状況をふまえて、お見舞いの日程について慎重に検討されてきました。
両陛下は午後1時半すぎ、マイクロバスで輪島市の輪島朝市に到着されました。
元日に大規模な火災が起きた、輪島朝市。両陛下は、輪島市の坂口茂市長の説明を受けながら、被害の様子をご覧になりました。
輪島市では、102人が亡くなり、いまだ4人の安否がわかっていません。
両陛下は、地震と大規模火災で多くが失われた場所に向かい、深く頭を下げられました。
現地の負担とならないよう、市内の移動には、職員らと同じマイクロバスを利用された両陛下。窓を開けて、沿道に集まった人たちに、手を振って応えられました。
輪島市民
「足もと悪いなか、よく来てくれて、ありがたいなと思いました」
「きれいに撮れましたね。よかったです。お二人の姿きちんと見ることできまして、ほんとに心の中で、ずっとこれからこの思いを大事にして、この震災を乗り切っていきたいと思います。“ありがとうございました”という感じですね」
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輪島朝市の視察後、64世帯105人が避難生活を送っている「輪島市ふれあい健康センター」を訪問された両陛下。被災者の段ボールベッドの前に行って腰を落とし、視線を合わせながら、一人ひとりを気遣われました。
皇后さま
「おうちは、この辺りですか?」
避難者
「すぐ近くなんですけど」
天皇陛下
「大変でしたね。おけがは大丈夫ですか?」
避難者
「はい、大丈夫です」
皇后さま
「お二人暮らし?」
避難者
「はい、そうです」
皇后さま
「お母さんと?」
天皇陛下
「大変でございましたね」
皇后さま
「怖い思いをされましたね」
避難者
「一緒にいたので、避難することができました」
皇后さま
「こちらも、まだ水は使えないんですか?」
避難者
「外は出ますけど、中の方はまだ…」
両陛下から、声をかけられた被災者は…
新谷満さん
「『自宅は大丈夫なんですか?』と聞かれましたので、『中規模半壊で、住むことができません』とお答えしました。『大変ですね』という、やさしい言葉が返ってきました。勇気づけられました」
「(母親は)近い距離で、目も合わせて、よかったと言っていました」
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特別な思いをもって、天皇陛下との“再会”を心待ちにしている人もいました。
「なんとなく感慨深いものがあるね。あれから48年(以上)だからね」
輪島塗の職人、七浦孝志さん(76)は、輪島市にある仕事場兼自宅が地震で被害にあいました。
七浦さんは、ずっと大切にしている“1枚の写真”があります。
七浦孝志さん(76)
「昭和50年8月26日に、いまの天皇陛下が皇太子のとき…輪島のホテルで宿泊したときに、私どもが行って、“御神事太鼓”を披露したわけなんです」
50年ほど前、当時15歳の高校1年生だった天皇陛下が輪島市を訪問された際、七浦さんは地域に古くから伝わる“御神事太鼓”を披露したといいます。
七浦孝志さん(76)
「(写真を撮るときに)周りのようすとかは、しっかり見ていましたよ。若いときから、国民に対しての習慣というか、自然とそういうのが身についているんでしょうね」
地震の影響で額縁に傷がついてしまったといいますが、家宝のように大切にしてきた写真。
妻・七浦まさ子さん
「大事にして、お友達とかお客さんが来たときに…自慢していましたね」
そして、約半世紀越しの、待ち焦がれた再会――
午後1時半ごろ、両陛下がバスで通過する、ほんの一瞬のタイミングに合わせようと、七浦さんは必死でカメラを構えます。
七浦孝志さん(76)
「自分を褒めてやろう。こんなにうまく撮れたんだから」
「“久しぶりに顔見た”、そういう感覚はあるけど。家もこんなになって、これからどうのこうのとかって考えたりはしますけど…」
「だけどやっぱり顔見ると、“まだまだこんなこと言っていたらいけない”、“もう1回やり直そう”とそういう気持ちになりますよ」
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被災地に心を寄せ、被災者に優しい言葉で語りかけられた両陛下。22日夜、帰京される予定です。