“原爆は終わっていない”海を渡った高校生平和大使 長崎の被爆3世、オスロの高校で「未来の世代の責任」訴え
核廃絶を求めて活動する高校生平和大使の代表者が、ノーベル平和賞の授賞式が行われたノルウェーへ。現地の高校生に、被爆地の願いや被爆者の体験を伝えました。その1人の被爆3世は、原爆の影響はずっと続き、未来の世代には責任があると強く訴えました。
10日、ノルウェー・オスロ。ノーベル平和賞授賞式の後、街は平和を訴える火で埋め尽くされました。
「ノーモア ヒバクシャ(No More 被爆者)」という声がオスロの町に響きます。日本被団協の功績をたたえ、市民らが横断幕やたいまつを手に行進しました。
そこには日本の高校生4人の姿もありました。彼女たちは、核廃絶を求めて署名活動などを行う高校生平和大使の代表として、この地を訪れました。
臆することなく他の参加者に話しかけていたのは、高校生平和大使で長崎東高校2年の津田凜さん。被爆3世です。長崎市で3歳の時に被爆した祖父・強さんの姿から、原爆の恐ろしさを学んできました。
津田さん
「今はだいぶ…」
強さん
「今はなんてことないですよ」
津田さん
「そうは言えんよ。私が小さい頃は前立腺・肝臓・食道・胃がんを持っていて、入退院を繰り返していて」
「原爆の何が恐ろしいかって、あの日じゃ終わらない、今でも病気を持って闘っている方もいるし、あの日を乗り越えて生きたとしても、10年後に亡くなった人も大勢いますし。ずっと続いていくということを伝えないといけない」
原爆は終わっていない。その現実を世界に伝えるため、同じ長崎県の大原悠佳さん、広島県の甲斐なつきさん、熊本県の島津陽奈さんとともに、オスロへ。
ノーベル平和賞の授賞式に同席するほか、現地の高校生に向けて被爆者の体験を伝える授業を行うことになりました。
津田さん
「核兵器の問題は世界が目を合わせないと、目を向けないといけない問題。だからこそノルウェーの学生や市民の方々にも向き合ってもらう必要があるということを大切に伝えていきたいと思います」
出発する直前、祖父の強さんと電話で話したといいます。「ちゃんと責任と仕事を果たして頑張ってくると伝えたら、『楽しみにしとるけん、待っとるけん』と伝えてくれて」
現地時間9日。揺れる電車と格闘しながら、オスロ市内の高校へ向かいます。車内でも、最後まで準備に余念がありません。
あの日から79年たった今、10代の自分たちにできることを。現地の高校生と向き合い、英語でスピーチしました。
津田さん
「私は津田凜です。被爆者3世です。被爆者が苦しみを乗り越えてきた記憶を残さなければなりません。私たちはきょうここオスロで、被爆者が語り続けてきたメッセージは失われていないということを伝えたい」
「原爆後遺症は79年後にも続いていました。生存しても多くが後遺症で亡くなりました」
祖父の強さんを紹介し、後遺症と闘うとはどういうことなのかも伝えました。
スピーチの中で、被爆者の家族が折った千羽鶴を紹介。折り紙で鶴を折る方法をレクチャーしました。
さらに、核兵器の廃絶や平和への考え方などを議論する時間も設けられました。
津田さん
「共感だけでは十分ではありません。私たちは彼らの体験談を未来の世代に伝えることで積極的に人々の関心を高めていかなければなりません。私たちのような未来の世代が過去について学び、決断をすることができます」
「被爆者の平均年齢は現在85歳を超えています。彼らの活動を続け、体験談を残していくことは私たち未来の世代の責任です。核兵器がもう二度と使用されない世界を築くために、ともにその責任を担うべきです」
ともに未来を担う世代として、現地の高校生は4人の思いをどのように受け取ったのでしょうか。
「被爆者本人だけでなく、後の世代にまで与えた影響について知ることができました」「家族の話や体験談は、とても心に響きました。僕たち学生はそれが再び繰り返されることを防がなければなりません」といった声が聞かれました。
津田さん
「世界でも家族愛だったり誰かを思う気持ち、それを奪っていく核兵器の恐ろしさというのは伝わっていくものなんだなと改めて思いました。これをつないでいかないといけない、その責任があると自負もしました」
被爆地ヒロシマ・ナガサキの願いを世界へ広げるため、海を渡ったメッセンジャーたち。微力だけど無力じゃない。それが、高校生平和大使のスローガンです。
(12月11日『news every.』より)