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福島思い続けた西田敏行さん、怒りにじませ叫んだ「負けない!」 通い続けた居酒屋、店主の思い出

2025年3月2日 18:10
福島思い続けた西田敏行さん、怒りにじませ叫んだ「負けない!」 通い続けた居酒屋、店主の思い出
西田敏行さんのボトルと写真

2024年10月に亡くなった西田敏行さん。俳優として、歌手として、司会者として表情豊かだった西田さんには別の顔がある。故郷は約14年前に未曾有の大震災と原発事故に見舞われた福島県。西田さんは打ちひしがれた福島県民を励まし、風評被害に悩む農家や飲食店などを勇気づけた。西田さんと親交があった居酒屋の女将は西田さんが語り掛ける「大丈夫だ」という言葉が忘れられないという。一方で西田さんが怒りを露わにして訴えた言葉がある。「ふくしまは負けませんから!」。この言葉が多くの福島県民を奮い立たせた。

西田さんの訃報から2か月 店で奇跡的に見つかった「宝物」

夜になるとオレンジ色の明かりが店からこぼれる福島県郡山市にある「居酒屋竹」。こぢんまりとした店内で、30年ぶりに見つかったものがあった。店主の広瀬武子さん(77)が手にしていたのは焼酎のボトル。ボトルのラベルには、ちょっと眠たそうな顔をした男性の似顔絵が描いてある。30年前に西田敏行さんが直筆したサインと似顔絵入りのキープボトルだった。西田さんが亡くなって約2か月後の去年12月、広瀬さんの店の棚の奥から奇跡的に見つかった。店にたくさんあった西田さんのサインボトルは震災で割れてしまっていたが、この1本だけが無傷のまま見つかったという。

「私のお宝、見つかりました!」

まるで天国の西田さんのいたずらであるかのように、突然帰ってきたボトルを広瀬さんはぎゅっと抱きしめた。そして、西田さんがよく座っていた席を見つめながら懐かしんだ。

「友達を連れてきたり、1人できたり。亡くなるちょっと前も来てくれた」。

店のカウンターには広瀬さんが手作りした煮物にポテトサラダが「好きに食べて」と言わんばかりに山盛りで置いてある。ストーブの上で沸かしているやかんの音がなんだか実家に来ているように思わせてくれる。ここは西田さんの行きつけの店。店の壁には西田さんが来たときの写真やサインが所狭しと飾ってある。

「もしかしたらまたひょっこり入ってきてくれるかなとそういう風に思うことがある」。

西田さんが故郷を愛した理由

西田さんはかつて生まれ育った故郷のことをこんな風に話していた。

「山があって、川があって、湖があってという自然の中で思いっきり空気を吸って育ちましたので、やっぱり仕事で煮詰まったりするとふっと帰りたくなる場所が福島」。

東京から新幹線で1時間ちょっと。西田さんが生まれた福島県郡山市は、雄大な自然に恵まれていて、そんな故郷に愛着を持っていた西田さんは、俳優として大成してからも頻繁に故郷に帰ってきていたという。そこでよく通ったのが、広瀬さんが営む居酒屋竹だった。

「昔はお酒飲めねがったの(飲めなかったの)。でもみんなと話して楽しめる場所が欲しかった。夢だったの、ずっと。」

48歳の時に念願だった居酒屋を開いた広瀬さん。間もなくして足を運んでくれたのが西田さんだった。

「全然、気取ったりしない。私たちは西田さんに気を使わないけど、西田さんは周りにすごぐ(すごく)気をつかう人。」

広瀬さんと西田さんは同じ昭和22年生まれ。西田さんは俳優として活躍するうえで“福島なまり”を俳優仲間にからかわれたエピソードを披露していたという。一方で“標準語と福島なまりのバイリンガル”と自分の個性の1つと捉えていたふしもあったようだ。広瀬さんの“福島なまり”も負けず劣らず。都会の喧騒から離れ、郡山に帰って広瀬さんと会うのは、西田さんにとって旧友と会うような心落ち着くひと時だったかもしれない。

「なんで、武ちゃんはそんなになまってんだっていわっちゃ。あんただってなまってっぱいって、西田さんと2人ですごいしゃべってた」。


以前、郡山市の市場で働いていた広瀬さんは、地元で採れた新鮮な野菜を使った料理を提供している。それも西田さんの楽しみの1つだったようで「よくキュウリに味噌をつけ、頬張っていたよ」と広瀬さんも懐かしむ。常連のお客さんと笑って過ごして、ふるさとの食事を楽しんで…そんな穏やかな広瀬さんと西田さんの時間をある出来事が襲った。

風評に悩む福島で語った「大丈夫」

2011年3月11日、その日店には団体の予約が入っていた。コロッケや天ぷら、広瀬さんが心を込めた料理がようやく出来上がったとき。突如襲った激しい揺れで西田さん愛飲の酒のボトルも、食器も、宙を舞うように飛び交い、粉々に割れてしまった。2011年3月11日の東日本大震災だった。郡山市は震度6弱の揺れに見舞われ、広瀬さんの自宅は半壊してしまった。
その後の原発事故で放射性物質が拡散し、福島県は前例のないいばらの道を歩むことになった。大きな問題となった1つが農作物や魚介類への風評被害だった。「福島の魚なんか食べたくない」「汚染されて危険で食べられない」。“福島産”というだけで買ってもらえなくなった。

「福島の農産物は何も売れなくなる」。

そう家族に言い残して、自ら命を絶った農家も…。広瀬さんも「検査をしないと食べられない」と言われたという。夢だった自分の店をこのまま続けていけるのか、途方に暮れている時だった。

「心配してたぁ福島のこと」。

震災から数年。風評がなくなる気配もなく、みんなが疲れ果てていたころ、西田さんが店にやってきてくれた。好物の「キュウリを食べたい」という。

「西田さん来たよ、キュウリ持ってきて!」

広瀬さんはすぐに知り合いの農家に連絡した。キュウリを届けた農家は西田さんがキュウリを食べる姿を見て顔をくしゃくしゃにして喜んでいたという。

「西田さんは『頑張っぺない(頑張ろう)、頑張っぺない』ってよく私たちに言ってた。私だって泣きたくなる時はあったよ。『大丈夫だ』ってあの言葉があったけぇんだ。何しろ」。

「ふくしまは負けない!」県民の心揺さぶった西田さんの”叫び”

落ち込む“故郷”の姿を見て、西田さんは精力的に福島県内各地に出向き、地震、津波、原発事故、そして風評被害で苦しめられた人々を励まし続けてきた。
郡山市のスーパーマーケットで行われた風評払拭のイベントに参加し福島県産のトマトやイチゴを頬ぼったのは、原発事故からわずか1か月後のことだった。そして、マイクを握って周囲に語りかけた。

「東京の避難所を訪れたとき、80過ぎたばあちゃんが俺の手を握って、帰りてえって一言いいました。涙が止まりませんでした。ふくしまを汚したのは何だ!誰だ!本当に腹が立ちます」。

聞いていた会場の人たちの目が潤む。「自分たちが何をしたというんだ…」「なぜ福島だけがこんな目に合わないといけないんだ…」「故郷はどうなっていくの…」。人々の悔しさや不安を代弁するかのように、西田さんが怒りをにじませ叫んだ。

「ふくしまは負けませんから!マグニチュード9.0?津波の高さ14m?負けないよ!負けたのは、原発だ!」

「負けない」という言葉が多くの福島県民の心に響いた。未曽有の大災害に対しても粘り強く耐え続ければ負けることはない。耐えながら、一歩一歩前に進もうと西田さんは呼び掛けた。受け止めた県民は「元気づけられた」「美味しい野菜をもう一度みんなに届けたい」と語り、今でもこの言葉は記憶に鮮明に残っているという。
福島では事故があったその年からずっと放射性物質の食品検査を続けていて、検査データは誰でもみることができるように公表している。環境中から放射性物質を取り除く除染が進められ、一時は避難区域になったエリアに住民たちが少しずつ少しずつ戻ってきた。長い年月がかかっても、震災前の日常を取り戻そうという取り組みは今も続く。

「残りの人生も…」福島を思い続けた西田さん

原発事故による避難指示の解除や復興に向けた動きが進んでいた2018年、福島県から西田さんに「県民栄誉賞」が贈られた。その時、西田さんは「残りの人生」についてこう語った。

「これから残りの人生も、ちゃんと福島のために頑張れるような仕事をすれば、この栄誉賞は『きっとお前がもらってもいいぞ』と言ってくれるだろう。もう一度福島のことを思いながら表現をしてゆく俳優として生きていきたい。」

居酒屋竹では、サインボトルが見つかってからはそのボトルを一目見ようと西田さんのファンが店に訪れるようになった。

「このボトルが見つかったとき、“もう一回飲むべ”と西田さんに言われた気がした。あの人は、愛がいっぱいある人なんだ」。

居酒屋竹のテーブルにはきょうも地元産の野菜で手作りした料理が並んでいる。

最終更新日:2025年3月2日 22:17
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