特集「キャッチ」被爆者の体験を語り継ぐ 孫が知る“祖父の戦争” 福岡
被爆者の体験を語り継ぐ 朗読会立ち上げ
特集「キャッチ」です。長崎への原爆投下から2023年8月9日で78年です。被爆者の体験を語り継ごうと、朗読会を始めた女性が福岡市にいます。活動の原点にあるのは、戦争を生き抜いた祖父から引き継いだ“声なき思い”でした。
■朗読会の様子
「右目玉は飛び出したまま、いまにも歩き出しそうにして、遠くをじっと見つめて死んでいました。」
9日に福岡市で開かれた平和の大切さを考えるイベントでは、1945年8月の広島、長崎への原子爆弾の投下で被爆した人の体験記が朗読されました。
■朗読会の様子
「とにかく死体、死体、黒こげの死体、白い骨になった死体。」
朗読会を開いたのは、福岡市原爆被害者の会がことし1月に結成した『おり鶴の声』です。『おり鶴の声』という名称には、朗読を通じて平和への願いを発信していくという思いが込められています。
7月29日、朗読会の本番前最後の練習が行われました。
■原田由美子さん(36)
「(被爆者である)生地さんが言ってくださることに、意味があるのかなとみんなで考えていて。『年寄りを返せ』と『私を返せ』を言えばいいんですね。」
練習を進行するのは、『おり鶴の声』を立ち上げた一人、原田由美子さん(36)です。
『おり鶴の声』のメンバーには公務員や主婦など、23歳から80歳までの10人が集まりました。メンバーの内、被爆者は1人だけで、ほとんどが戦争を経験していない世代です。
■原田さん
「いまがもう最後なんですよね。実際に被爆された人や、証言してくださったりシナリオや原稿を残してくださっている人に直接お会いできるのが、いましかないから、いま動かないとって思っちゃう。」
原田さんが伝承活動を始めるきっかけとなった手記があります。『神谷虎雄の年譜』です。原田さんの祖父・神谷さんが、亡くなる1年前、86歳の時に、生きた証しとして残した“自分史”です。
■原田さん
「“自分史”があるのを知ったのは、たぶん大学卒業してからとか。わりと最近ですかね。」
神谷さんは北九州市の八幡製鉄所で働き、1940年に27歳で陸軍に入隊しました。その後、中国の漢口市、いまの武漢市に出征し、6年あまりを戦地で過ごしました。手記にはイラストや写真とともに、現地での生死にかかる日々が記されています。
■手記の文言
「桂林にて左足上部を機関砲破片にて貫通」
■原田さん
「母も祖父からは(戦争の話を)聞いた記憶がないと言っていた。おじいちゃんこんな気持ちだったんだと、亡くなってからようやく知りましたね。」
原田さんが祖父への思いを強くする場所があります。福岡市の博多港引揚記念碑です。博多港には終戦後、中国や朝鮮半島などから軍人を含む139万人あまりの日本人が引き揚げてきました。原田さんの祖父も、その一人です。
■原田さん
「祖父が戻って来てくれなかったら、私はいまいないから。そう思ったら。あまりこの博多港を、そういう目で見たことなかったが、改めてこの(朗読)活動をしながら来たら、ちょっとグッとくるものがありますね。」
原田さんには、手記にあった一言が強く印象に残っています。
■手記の文言
「祖国日本の土を踏んだ折の感激は胸を熱く染めて涙は止めどなく流れうれしさでいっぱいだった」
■原田さん
「私の中の祖父のイメージはものすごく屈強な人。祖父が泣くイメージが全くなかった。祖父の中でようやくつらかった戦争が終わって、日常が始まるとかいろんな思いがあったのかなと想像して。祖父の思いに寄り添える。」
聞くことができなかった祖父の思いを知り、「だからこそ、いま戦争の現実を語り継ぐ人たちの思いは途絶えさせてはいけない」と、原田さんは思いを強くしました。
■原田さん
「祖父と一緒に暮らしながら、戦争の話とか何も聞いていないのを後悔していて、その後悔も含めてこれからの活動をしていかなければと思っていて。戦争を体験された人や被爆された人が、いま生きていてくださるので、その人たちからちゃんと話を聞いて、私より若い世代とか同性代ももちろんですけど、いろんな人にその人たちの思いや言葉を伝えていく。」
被爆者健康手帳を持つ全国の被爆者は、ことし3月末時点で11万3649人です。手帳の交付が始まった1957年以降で最も少なく、平均年齢は85.01歳と高齢化が進んでいます。被爆体験、そして、戦争体験の継承は大きな課題です。
9日に初めて、朗読会『おり鶴の声』は上演されました。
■朗読会の様子
「かろうじて生き残った人々も、偏見と差別に苦しみ、目に見えない放射線による病魔の恐怖からは逃れられなかったのです。」
■原田さん
「戦争で理不尽に命を奪われない世界に少しでも近づけるように。いま私がしている活動もそうだが、やれること、まず知ることとか関心を持ってみることとか勇気出して動くこととか、気づいた人から動けば良いんだろうなと。」
■朗読会の様子
「右目玉は飛び出したまま、いまにも歩き出しそうにして、遠くをじっと見つめて死んでいました。」
9日に福岡市で開かれた平和の大切さを考えるイベントでは、1945年8月の広島、長崎への原子爆弾の投下で被爆した人の体験記が朗読されました。
■朗読会の様子
「とにかく死体、死体、黒こげの死体、白い骨になった死体。」
朗読会を開いたのは、福岡市原爆被害者の会がことし1月に結成した『おり鶴の声』です。『おり鶴の声』という名称には、朗読を通じて平和への願いを発信していくという思いが込められています。
7月29日、朗読会の本番前最後の練習が行われました。
■原田由美子さん(36)
「(被爆者である)生地さんが言ってくださることに、意味があるのかなとみんなで考えていて。『年寄りを返せ』と『私を返せ』を言えばいいんですね。」
練習を進行するのは、『おり鶴の声』を立ち上げた一人、原田由美子さん(36)です。
『おり鶴の声』のメンバーには公務員や主婦など、23歳から80歳までの10人が集まりました。メンバーの内、被爆者は1人だけで、ほとんどが戦争を経験していない世代です。
■原田さん
「いまがもう最後なんですよね。実際に被爆された人や、証言してくださったりシナリオや原稿を残してくださっている人に直接お会いできるのが、いましかないから、いま動かないとって思っちゃう。」
原田さんが伝承活動を始めるきっかけとなった手記があります。『神谷虎雄の年譜』です。原田さんの祖父・神谷さんが、亡くなる1年前、86歳の時に、生きた証しとして残した“自分史”です。
■原田さん
「“自分史”があるのを知ったのは、たぶん大学卒業してからとか。わりと最近ですかね。」
神谷さんは北九州市の八幡製鉄所で働き、1940年に27歳で陸軍に入隊しました。その後、中国の漢口市、いまの武漢市に出征し、6年あまりを戦地で過ごしました。手記にはイラストや写真とともに、現地での生死にかかる日々が記されています。
■手記の文言
「桂林にて左足上部を機関砲破片にて貫通」
■原田さん
「母も祖父からは(戦争の話を)聞いた記憶がないと言っていた。おじいちゃんこんな気持ちだったんだと、亡くなってからようやく知りましたね。」
原田さんが祖父への思いを強くする場所があります。福岡市の博多港引揚記念碑です。博多港には終戦後、中国や朝鮮半島などから軍人を含む139万人あまりの日本人が引き揚げてきました。原田さんの祖父も、その一人です。
■原田さん
「祖父が戻って来てくれなかったら、私はいまいないから。そう思ったら。あまりこの博多港を、そういう目で見たことなかったが、改めてこの(朗読)活動をしながら来たら、ちょっとグッとくるものがありますね。」
原田さんには、手記にあった一言が強く印象に残っています。
■手記の文言
「祖国日本の土を踏んだ折の感激は胸を熱く染めて涙は止めどなく流れうれしさでいっぱいだった」
■原田さん
「私の中の祖父のイメージはものすごく屈強な人。祖父が泣くイメージが全くなかった。祖父の中でようやくつらかった戦争が終わって、日常が始まるとかいろんな思いがあったのかなと想像して。祖父の思いに寄り添える。」
聞くことができなかった祖父の思いを知り、「だからこそ、いま戦争の現実を語り継ぐ人たちの思いは途絶えさせてはいけない」と、原田さんは思いを強くしました。
■原田さん
「祖父と一緒に暮らしながら、戦争の話とか何も聞いていないのを後悔していて、その後悔も含めてこれからの活動をしていかなければと思っていて。戦争を体験された人や被爆された人が、いま生きていてくださるので、その人たちからちゃんと話を聞いて、私より若い世代とか同性代ももちろんですけど、いろんな人にその人たちの思いや言葉を伝えていく。」
被爆者健康手帳を持つ全国の被爆者は、ことし3月末時点で11万3649人です。手帳の交付が始まった1957年以降で最も少なく、平均年齢は85.01歳と高齢化が進んでいます。被爆体験、そして、戦争体験の継承は大きな課題です。
9日に初めて、朗読会『おり鶴の声』は上演されました。
■朗読会の様子
「かろうじて生き残った人々も、偏見と差別に苦しみ、目に見えない放射線による病魔の恐怖からは逃れられなかったのです。」
■原田さん
「戦争で理不尽に命を奪われない世界に少しでも近づけるように。いま私がしている活動もそうだが、やれること、まず知ることとか関心を持ってみることとか勇気出して動くこととか、気づいた人から動けば良いんだろうなと。」
最終更新日:2024年6月28日 13:59