ある被爆者との出会いで継承を決意「84歳の平和案内人」世界へ発信したいと英語でのガイドも《長崎》
ある被爆者との出会いから活動をスタートした「平和案内人」の男性を取材しました。
被爆から79年、思いを新たにしています。
▼減ってしまった、被爆者が…
(被爆者 大庭 義弘さん)
「触ってみてください。これはサイダー瓶が溶けたもの。(ガラスは)1300℃が融点。長崎の道端でも2000℃あったからこんなに溶けた」
大庭 義弘さん 84歳。
長崎市の原爆資料館でボランティアガイドを務める “平和案内人” として活動しています。
(被爆者 大庭 義弘さん)
「減ってしまった、被爆者が。若い人に繋ぐ以外にない。平和活動を続けるためには。継承活動が大事になってきた」
被爆の実相を、次の世代に伝えていくため。
平和な未来のため、思いを新たにしています。
(被爆者 大庭 義弘さん)
「中学校の学生が毎朝、ここを通って行くのを見ていた。その記憶は残っている」
1945年、当時5歳の大庭さんは爆心からわずか800メートル。長崎市竹の久保町の瓊浦中学校の近くで暮らしていました。
(被爆者 大庭 義弘さん)
「電気も水道もない、そういう環境」
空襲が激しくなった7月。
当時の喜々津村にあった親戚を頼り、自宅を離れて家族で疎開することに。
8月9日は、朝から畑作業をしていました。
そして…午前11時2分。
(被爆者 大庭 義弘さん)
「向こう(長崎市の方向)から光が走ってきた。原子爆弾が爆発した瞬間、ドカンと大きな音がして、一帯がみんな揺れた」
爆風によって10mほど飛ばされましたが、大きなケガはありませんでした。
原爆投下の2日後、家族で長崎市内へ。
汽車で道ノ尾駅まで行き、自宅の竹の久保町までは歩いて向かいました。
(被爆者 大庭 義弘さん)
「焼野原、ここは。下にあった自宅も燃えてしまって、家財一切残していたものは何にもなくなってしまった。(8月9日に)ここにいたら助かったかどうかわからない」
大橋町で被爆した叔母や いとこなど6人と連絡が取れず、必死に探しましたが、行方は今もわからないままです。
(被爆者 大庭 義弘さん)
「原爆というのはこういうふうに広い範囲で人が亡くなってしまう、焼けてしまう。叔母、叔父、いとこたちと楽しく過ごした思い出はあるが、もうどうしようもない。それが戦争、悲しい」
▼けがもない叔父が1か月後死亡 “自分も病気になるのでは” という恐怖
大庭さんの自宅近くに住んでいた叔父は、けがなどはなかったものの1か月後に、40℃を超える高熱で亡くなりました。
『原爆症』とみられる症状で亡くなった親せき。
“自分も、いつか病気になるのでは”
その恐怖と向き合いながら、生きてきたといいます。
(被爆者 大庭 義弘さん)
「いつかがんにかかるのではないか。当然ながら(原爆症への)恐怖は常にあった」
自身の被爆体験を語ることはほとんどありませんでしたが、被爆65年の2010年、転機を迎えます。
▼被爆体験を語らなかったワケ 被爆者は “苦しい体験を思い出したくはない”
(被爆者 谷口 稜曄さん)
「私は核兵器がこの世からなくなるのを見届けなければ、安心して死んでいけません。私を最後の被爆者とするため、核廃絶の声を全世界に!」
被爆者運動を長年けん引してきた故・谷口 稜曄 さんとの出会いです。
(被爆者 大庭 義弘さん)
「この人たちが長崎の平和活動の走り。中心になって進めた」
谷口さんの 核兵器廃絶の思い。そして平和への願いも継承したいと “決意” しました。
(被爆者 大庭 義弘さん)
「自分の背中の傷をみんなの前にさらけ出して、平和を訴えてくれたことにいたく感銘を受けた。
(被爆者は)身内が亡くなったりして、苦しい体験をみんな積んでいる。話すのは本人にとってはいいことではない。けれど(自分も)被爆体験を平和活動にいかしていこうと…」
これを機に、長崎原爆による爆風や熱線の威力、放射線による被害などを学び…。
(被爆者 大庭 義弘さん)
「(町の)3分の1が、一瞬にして失われた。戦争は怖い、原子爆弾は非常におそろしい兵器。
絶対、核兵器は使わせてはならない。戦争をしたらいけないというのが、この被爆体験から出た言葉」
▼客観的に学んだ「原爆の知識」と「体験」でガイド 外国人には英語で説明
2017年、平和推進協会の継承部会に所属。
以来、当時の記憶や思いを若い世代に語ってきました。さらに…。
(被爆者 大庭 義弘さん)
《英語で説明》
「放射線物質を含む雨が降った」
世界にも発信しようと、2020年に発足した “英語研修班” にも参加。
外国人に英語で伝えています。
これまで外国人観光客や長崎国際大学の留学生に向けての講話も、定期的に続けてきました。
(スイスから)
「核兵器は、これ以上使われることがあってはいけない。あまりにも非人道的だから」
(被爆者 大庭 義弘さん)
「日本は世界で唯一の被爆国になったが、それに対し、外国の人はまだ非常に被爆の苦しみや被爆の実相をほとんど知っていない。核兵器をなくすための道づくり、それをしっかりつくっていく」
もう二度と同じ苦しみを生まないために。
被爆から79年。
平和な世界の実現に向け、大庭さんは活動を前に進める決意です。
(被爆者 大庭 義弘さん)
「平和活動をさらに前進させて、世界の人々に核兵器は人間と共存できない。戦争は絶対したらダメということを継承して、そして世界の平和のために語っていこうと。我々の希望」
【NIB news every. 2024年2月21日放送より】