死への恐怖 修羅場と化した不動院 4歳で被爆した男性 命絶えるまで語り継ぐ 北海道
4歳のときに被爆し、いまは札幌に住みながら語り部として原爆の記憶を伝える男性がいます。
戦後79年を迎えた夏、人生を変えられた原点に戻ろうと広島を訪れました。
原爆の記憶をつなぐ広島市の平和記念公園。
世界中から訪れる人が絶えません。
札幌に住む大村一夫さん、83歳です。
79年前、広島で被爆しました。
(大村一夫さん)「こうやって残して、どこまで内面を語れるのかと思って、見る人によって感傷がかなり違うなと思うね。どのくらいの気持ちで見る方が思っているか」
1945年8月6日午前8時15分、世界で初めて広島市に投下された原子爆弾。
その年のうちに、およそ14万人が亡くなったと言われています。
大村さんは4歳8か月のとき、姉とおばと朝食を囲んでいた自宅で被爆。
その3年後、原因不明の高熱で1年間にわたって病床に伏しました。
それ以来、被爆による死への恐怖に苛まれたといいます。
(大村一夫さん)「本当にね、助かって終わりじゃない。自分は学校出るのも就職するのもまともにいかなかった。あれさえなければという呪縛がある」
その後、40代になり人生を見つめ直し、原爆をつくった国を知ろうと、あえてアメリカ全土を20年かけて周りました。
70代になってからは自らが体験した戦争の悲惨さを伝えています。
(大村さんの講話)「ぴかーって瞬間に閃光とともに続いてどかーんと音がしたとともに、爆風でうちが一気に崩れたせいか、前が見えなくなりました」
先月、大村さんは6年ぶりに広島を訪れました。
自分の記憶と向き合うためです。
(大村一夫さん)「もう1回原点ですね。ここにいなかったはずの人間がいられたという存在意義をもう一回振り返る」
爆心地から1.6キロの距離にあった大村さんの自宅。
半径2キロまでの地域では、ほとんどの木造家屋が倒壊したといいます。
自宅からの場所を起点に、記憶をつむぎながら歩みをすすめます。
見えてきたのは爆心地から2.3キロの距離にある工兵橋です。
(大村一夫さん)「来た時は大混乱。兵隊は泣き叫び、水くれの大合唱」
そこには、焦げて真っ黒になった人であふれる恐ろしい光景が広がっていました。
当時の記憶を頼りに大村さんが描いた絵です。
やけどをした多くの人が橋を渡って逃げた様子が描かれています。
(大村一夫さん)「(兵隊は)ちょうど体操中にパンツ1つで爆破されたから、全身血だらけ血みどろ、水くれー水くれー。あつくて我慢できないから、どんどん川に飛び込んだ。ぷかぷか流されながら頭がだんだん沈んでいく。そのうちに火が迫ってきた」
その後、北へ逃げた大村さんとその家族。
命からがら歩きついたのは、避難先の農家でした。
当時を知る人はもう残っていないのかー
(大村一夫さん)「11月で満84になるんです」
(地元の人)「私は88」
(地元の人)「私が92です。まだ小学校6年生のときに原爆にあいました」
(大村一夫さん)「だいたいこの辺だってわかるけど、これだけ住宅建つとわからないもんね」
(地元の人)「そうですね。わからないですね」
当時、多くの人が避難したのが、爆心地から3.9キロの距離にある不動院です。
その日、境内には被爆者があふれ修羅場と化したといいます。
(不動院 麻生弘融さん)「うちも境内でいっぱい人が亡くなっていますからね、原爆のあと逃げてきた人たちが。うちは子どものころには掘れば骨が出るようなところだった。再開発があったり、みなさん転居したりで、それが誰なのかは私たちではわからない」
大村さんが79年前に避難した農家を見つけることは叶いませんでした。
それでも再認識することができたのは、生きる目標です。
(大村一夫さん)「改めてここに立てるということがなんなのか、やっぱり立てなかった人たちの分まで何とかしなければならない。そういう思いをして生きている人たちがいるんだと。自分は幸い周りに守られて生きていたんだという現実、毎年思います」
被爆の記憶をたどることはつらく、苦しい。
しかし、生きのびた奇跡を広島の空から確認します。
自宅は全壊し、その後の人生を変えたあの日の原爆。
生まれ変わったマチの姿を目に焼き付けます。
(大村一夫さん)「あった、あった。(自宅は)爆心地からあまりにも近かった。改めてこんなに近かったとは」
7月、大村さんは北海道北広島市の小学校を訪れました。
亡くなった人の分まで生かされた命を全うしたい。
語り部として原爆の脅威を伝えます。
(大村一夫さん)「電車が満員だったんですよ。爆心地ですから、いきなり焼かれて、中に黒い塊があると思ったら全部人なんですよね。そのまま焼き殺されてしまった」
(大村一夫さん)「(避難先の寮に)集まってくるおばさんたちが、けがもなく何でもなかった人たち、ここにたどりついて助かったと思っている人たちが、『私最近こうなんです』と、櫛を入れたら髪がボソッと抜ける。『私も』と抜ける人がいる。そして何日間でそのおばさんたちは坊主頭になって、姿が見えないなと思ったら次々亡くなっていきました」
(大村一夫さん)「私はさらに語り継ぐことを一生懸命やらないとだめだと。戦争は関係ないという気持ちにならない皆さんになっていただきたいというのが、私の最大の願いです」
(小学6年生)「画像で見たりするだけではわからないことがいっぱいあると思うので、そういうところも自分の頭の中に入れておきたい」
(小学6年生)「戦争は人を殺し合ったり、亡くなったりするから嫌だなと思いました」
(小学6年生)「自分が子どもできたときにしっかり戦争はいけない、こういうことだから戦争はだめだと語り継いでいきたい」
命絶えるまで語り継ぐー。
戦後79年、広島の原爆を経験した語り部の決意です。