×

1歳で名古屋に避難した娘 原発事故後初めて"記憶のない故郷"福島へ

2023年11月21日 19:13
1歳で名古屋に避難した娘 原発事故後初めて"記憶のない故郷"福島へ

午前8時半ごろ、毎朝のように早起きをし、忙しい母親のために弁当を作るという和(いずみ)さん、中学2年生です。今から12年前の春、1歳の時に家族と福島から名古屋へやってきました。それ以来、母親の背中を見続けてきた和さんが、幼い頃から母親に感じていた思いを涙ながらに教えてくれました。

和さん:
「あの頃はもうなんも分かんなくて、ママがこんなモノを大事にしていたんだなみたいな、こういうことを知って欲しいんだなみたいな」

実は2011年の福島第一原発の爆発で、住んでいた福島県から自主避難をしていたのです。5人の子どもを育ててきた母親の早苗さん(45)は、子どもたちの被ばくを避けたいという思いから決断しました。3女の和さんは震災当時まだ1歳。福島の記憶はまったくありません。

地震だけなら…原発事故さえなければ…ずっとここにいられたのに

母親が聞かせてくれた自然豊かな福島に行ってみたい。そんな和さんの念願が叶い、今年11月、避難後初めて福島を訪れました。和さんと早苗さん、そして弟の龍樹(たつき)くんも一緒です。震災当時、龍樹くんはまだお母さんのお腹の中にいたので、名古屋で生まれました。

岡本さん一家が暮らしていたのは、原発から約60キロの福島県伊達市。子どもたちに福島を知ってもらいたいと向かったのは、当時住んでいた家でした。野生のカモが生息しているような自然に囲まれた土地は、名古屋で育った子どもたちには見慣れない光景です。

地震だけなら…原発事故さえなければ…そんな思いがこみ上げてきますが、思い入れのある土地にいまだ帰ることができない理由がありました。

早苗さん:
「ここ山の中ですし、除染がしきれていないっていうところは、(子どもたちに)被ばくをさせたくないっていう思いは今でも続いているので」

親子でよく遊びに来ていたという公園にも原発事故の爪跡が残っていました。原発事故後、公園に設置された放射線量を測定する装置。この日の空間線量率は0.157μSv/h。同日の名古屋市は0.077μSv/h。日本の基準よりは低いですが、伊達市は名古屋市のおよそ2倍となっています。
※日本の基準:年間1mSv=0.23μSv/h

「甲状腺がん」への拭えない不安 被爆しない権利を訴え戦い続ける

事故後、国からの避難の指示はなかった伊達市ですが、それでも早苗さんは自主避難を決断しました。今回、福島を知らない子ども2人を連れてきた理由は、ひとつの区切りが。

震災の2年後、早苗さんは国と東京電力を相手取り、必要な対策をとらなかったとして裁判を起こしました。しかし、一審では国の責任が認められず、控訴。その裁判の判決がもうすぐ出るのです。国と東電は、訴えを退けるよう求めています。

早苗さんは、福島の家の周辺の土壌では放射性セシウムが放射線管理区域の基準の3倍以上の値となっていて、住める状態ではないと裁判で主張しています。毎年のように甲状腺のエコー検査を受けている子どもたち。これまで大きな異常は見つかっていませんが、原発事故による「甲状腺がん」への不安は拭えません。

初めて見る福島第一原発 早苗さんが子供たちに見せたかった理由とは?

海岸へ向かう途中、タクシーの車窓から福島第一原発を初めて見た親子。現在、福島第一原発は廃炉に向けた作業中ですが、敷地内のタンクの中にある放射性物質を含む処理水を、この夏、国の安全基準の40分の1未満まで薄めて海へ放出することを始めています。放出期間は30年程度に及ぶ見通しです。

和さんが希望し、二審の判決を前にやってきた福島。子どものために避難した早苗さんは、来ることに迷いもありましたが…。

早苗さん:
「現状を見てもらう、リアルで。映像とかではなくて、現地に足を運んで見てもらって、この子たちが何を考えるかという。次の社会を選んでいくのはこの子たちなので」

今回、原発事故後初めて福島を訪れた和さんは、母親の福島に対する思いをどのように受け止めたのでしょうか。

和さん:
「お母さんは本当に福島が大好きで、みんなが大好きで、それを原動力にしていたりするのかなと思っています」

福島の現実を目の当たりにし、これからも母親を応援し続けるという和さん。名古屋高裁の判決は、11月22日の午前11時です。

  • 中京テレビNEWS NNN
  • 1歳で名古屋に避難した娘 原発事故後初めて"記憶のない故郷"福島へ