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平和への願いを “長崎の鐘” の音に込めて「100歳の被爆者」命ある限り仲間とともに《長崎》

2024年8月9日 20:20
平和への願いを “長崎の鐘” の音に込めて「100歳の被爆者」命ある限り仲間とともに《長崎》

100歳を迎えた被爆者の女性。

命ある限り…平和を広げる活動を続けます。

被爆者の中村 キクヨさん。先月1日、百寿を迎えました。

(中村 キクヨさん)
「100歳でお祝いばっかりで疲れた。きょうは鐘を鳴らす」

向かったのは、長崎市の平和公園にある「長崎の鐘」。

カーンカーンと鳴り響く鐘の音。

体調や天気がいい時は、原爆犠牲者の慰霊と平和を願い、毎月9日に訪れています。

(中村 キクヨさん)
「こうして皆さん、原爆に遭った苦しみを味わったから 二度とそれを味わわないように。平和を願いたい」

この日、平和公園近くの事務所にその姿はありました。

被爆者4団体のうちの一つ「県被爆者手帳友の会」。

1967年の設立当初の頃からのメンバーで、中村さんは現在 顧問を務めます。

(中村 キクヨさん)
「みんな被爆者として認めてもらうということで、会員になってくださいとずっと離れ島を回った。大変だったけど、苦労があってこそ、初めて一つの大きな実が結ぶ」

被爆者への援護獲得や核兵器廃絶の運動を続けて半世紀あまり。

(中村 キクヨさん)
「友の会は本当のふるさとみたいな。生涯家から離れたくないという気持ち」

女学校を卒業後、造船所での勤務を経て結婚しました。

自宅は爆心地から約5.8キロ。

1945年8月9日、庭で洗濯物を干していた時…。

(中村 キクヨさん)
「いきなり大きな音とともに、爆風で3メートルぐらい飛ばされた」

21歳でした。

翌10日、爆心地近くに暮らしていたおばたちを捜しにいった時の光景は、79年が経った今でも忘れられないといいます。

(中村 キクヨさん)
「人も倒れ、動物もね。死骸もいっぱいあって。駅に行ったらたくさんのケガされた人たち、亡くなった人たちが…」

自宅近くにも瀕死の医学生たちが運ばれ、看病にあたりました。

(中村 キクヨさん)
「毛布を持ってきてかけたり、水をくださいと言えば、首に絞ったタオルで水を含めてやって。水をやったら死にますよって言われたが(あげた)」

2006年8月9日の平和祈念式典。

(中村 キクヨさん)
「長崎に原爆が投下されてから、61年目を迎えます」

平和への誓いを読み上げる被爆者の代表として、多くの参列者を前に語った中村さん。

(中村 キクヨさん)
「つい3年前、55歳を迎えた被爆2世の次男は “白血病” で亡くなりました」

訴えたのは、次男・廣さんを白血病で失った苦しみです。

白血病と分かった後、廣さんの妻が自分を無視したり、つらく当たったりするようになったといいます。

その訳を知ろうと医師に尋ねると。

(中村 キクヨさん)
「国としては親から子に因果関係は認めていないけど、『僕は多分、お母さん(キクヨさん)からもらったお乳で、白血病になったと思う。そうとしか考えられん』と…」

息子の早すぎる死は、自分のせいではないか…。

苦しみは、今も続いています。

(中村 キクヨさん)
「病気を与えたっていうことは、もう本当に申し訳ないという気持ちが。私にとっては “重し” にずっとなっている」

『平和への誓い』をきっかけに、訪れた海外などでも自身の体験や思いを語り始めた中村さん。

6月に開かれた手帳友の会の総会では、ともに歩んできた仲間たちに、100歳を祝ってもらいました。

(中村 キクヨさん)
「あと残された時間はそう長くはないと思うけれども、平和に対する気持ちは一つも変わりません。私にできる小さな平和運動でも、皆さんと一緒に手を取られながら続けてこうと思う」

7月9日。長崎の鐘を鳴らす活動は、未来を担う子どもたちと一緒でした。

(中村 キクヨさん)
「この子たちには、平和をずっと続けていってもらいたい」

今も続くロシアによるウクライナ侵攻や、イスラエルによるパレスチナ・ガザ地区への攻撃。

多くの子どもや市民が犠牲になっています。

(中村 キクヨさん)
「ニュースで見ながらいつも悲しんでいる。戦争のむごさ、悲しさをみなさん知ってもらって、平和を元通りにしてもらいたい」

命の限り… 。
できることを、平和に向かって歩み続けます。