平和への願いを “長崎の鐘” の音に込めて「100歳の被爆者」命ある限り仲間とともに《長崎》
100歳を迎えた被爆者の女性。
命ある限り…平和を広げる活動を続けます。
被爆者の中村 キクヨさん。先月1日、百寿を迎えました。
(中村 キクヨさん)
「100歳でお祝いばっかりで疲れた。きょうは鐘を鳴らす」
向かったのは、長崎市の平和公園にある「長崎の鐘」。
カーンカーンと鳴り響く鐘の音。
体調や天気がいい時は、原爆犠牲者の慰霊と平和を願い、毎月9日に訪れています。
(中村 キクヨさん)
「こうして皆さん、原爆に遭った苦しみを味わったから 二度とそれを味わわないように。平和を願いたい」
この日、平和公園近くの事務所にその姿はありました。
被爆者4団体のうちの一つ「県被爆者手帳友の会」。
1967年の設立当初の頃からのメンバーで、中村さんは現在 顧問を務めます。
(中村 キクヨさん)
「みんな被爆者として認めてもらうということで、会員になってくださいとずっと離れ島を回った。大変だったけど、苦労があってこそ、初めて一つの大きな実が結ぶ」
被爆者への援護獲得や核兵器廃絶の運動を続けて半世紀あまり。
(中村 キクヨさん)
「友の会は本当のふるさとみたいな。生涯家から離れたくないという気持ち」
女学校を卒業後、造船所での勤務を経て結婚しました。
自宅は爆心地から約5.8キロ。
1945年8月9日、庭で洗濯物を干していた時…。
(中村 キクヨさん)
「いきなり大きな音とともに、爆風で3メートルぐらい飛ばされた」
21歳でした。
翌10日、爆心地近くに暮らしていたおばたちを捜しにいった時の光景は、79年が経った今でも忘れられないといいます。
(中村 キクヨさん)
「人も倒れ、動物もね。死骸もいっぱいあって。駅に行ったらたくさんのケガされた人たち、亡くなった人たちが…」
自宅近くにも瀕死の医学生たちが運ばれ、看病にあたりました。
(中村 キクヨさん)
「毛布を持ってきてかけたり、水をくださいと言えば、首に絞ったタオルで水を含めてやって。水をやったら死にますよって言われたが(あげた)」
2006年8月9日の平和祈念式典。
(中村 キクヨさん)
「長崎に原爆が投下されてから、61年目を迎えます」
平和への誓いを読み上げる被爆者の代表として、多くの参列者を前に語った中村さん。
(中村 キクヨさん)
「つい3年前、55歳を迎えた被爆2世の次男は “白血病” で亡くなりました」
訴えたのは、次男・廣さんを白血病で失った苦しみです。
白血病と分かった後、廣さんの妻が自分を無視したり、つらく当たったりするようになったといいます。
その訳を知ろうと医師に尋ねると。
(中村 キクヨさん)
「国としては親から子に因果関係は認めていないけど、『僕は多分、お母さん(キクヨさん)からもらったお乳で、白血病になったと思う。そうとしか考えられん』と…」
息子の早すぎる死は、自分のせいではないか…。
苦しみは、今も続いています。
(中村 キクヨさん)
「病気を与えたっていうことは、もう本当に申し訳ないという気持ちが。私にとっては “重し” にずっとなっている」
『平和への誓い』をきっかけに、訪れた海外などでも自身の体験や思いを語り始めた中村さん。
6月に開かれた手帳友の会の総会では、ともに歩んできた仲間たちに、100歳を祝ってもらいました。
(中村 キクヨさん)
「あと残された時間はそう長くはないと思うけれども、平和に対する気持ちは一つも変わりません。私にできる小さな平和運動でも、皆さんと一緒に手を取られながら続けてこうと思う」
7月9日。長崎の鐘を鳴らす活動は、未来を担う子どもたちと一緒でした。
(中村 キクヨさん)
「この子たちには、平和をずっと続けていってもらいたい」
今も続くロシアによるウクライナ侵攻や、イスラエルによるパレスチナ・ガザ地区への攻撃。
多くの子どもや市民が犠牲になっています。
(中村 キクヨさん)
「ニュースで見ながらいつも悲しんでいる。戦争のむごさ、悲しさをみなさん知ってもらって、平和を元通りにしてもらいたい」
命の限り… 。
できることを、平和に向かって歩み続けます。