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“平和というタネ”を子どもたちへ~いつか花開け! 被爆者代表の89歳「平和への誓い」に込める思い《長崎》

2024年8月9日 5:00
“平和というタネ”を子どもたちへ~いつか花開け! 被爆者代表の89歳「平和への誓い」に込める思い《長崎》

8月9日の平和祈念式典で、被爆者代表として「平和への誓い」を読み上げる89歳の男性。

子どもたちの未来が平和であるように、自身の体験を伝え続けています。

被爆体験の「語り部」として活動している被爆者の三瀬 清一朗さん 89歳。

(三瀬 清一朗さん)
「初めての体験で体がガタガタ震えている」

自ら手を挙げ、今年の平和祈念式典で「平和への誓い」を読み上げます。

(三瀬 清一朗さん)
「子どもたちから(背中を)押された。今のうちに話を続けていかないと。それなら(平和への誓いに)応募しようと」

(三瀬 清一朗さん)
「主にくんちの手ぬぐいとか。そこには五島町とかの手ぬぐいもある」

長崎市江戸町の「三瀬商店」。

注文を受けて長崎くんちの踊町のてぬぐいやスポーツ用のタオルなどを製造・販売しています。

三瀬さんの祖父が創業。120年近い歴史を持つ老舗です。

ある写真を見せてもらいました。

(三瀬 清一朗さん)
「これが賑町の鉄橋。私の家がここに2つある。矢の平に引っ越しする前に建物強制疎開にあった」

1935年に生まれた三瀬さん。

10歳のとき、空襲による被害拡大を防ぐための「建物強制疎開」によって市中心部にあった店が取り壊されることになり、8月1日に長崎市矢の平に移り住みました。

その8日後。

(三瀬 清一朗さん)
「オルガンのふたを閉めて立ち上がろうとした瞬間にピカーッときた」

爆風で家の畳は吹き飛ばされ、窓ガラスが割れて柱やふすまに突き刺さりました。

家には三瀬さんに祖母、母、兄弟の8人がいましたが、壁の近くにいたため、ケガはなく、全員無事でした。

その後、友人とともに通っていた伊良林国民学校の様子を見に行くことに。

そこで、“地獄”を目の当たりにします。

(三瀬 清一朗さん)
「男か女か分からないような “血だらけの人” がいっぱい運ばれてきている。まさに体育館の中は地獄。“水をくれ” とか “あそこが痛い” と言っている人が楽になりたいから自分から『殺してくれ』とわめいている」

次々とけが人が運ばれ、1か月ほどの間に266人がそのまま息を引き取りました。

校庭では、毎日のように遺体が焼かれていたといいます。

(三瀬 清一朗さん)
「学校の校庭は火葬場というより、死体処理場よりもごみ焼却場。あんなふうな状態だった」

その後 大学に進み、家業を継いだ三瀬さん。

長年、被爆体験を語ることはありませんでしたが、2014年非政府組織=NGOの活動で海外を訪れたことが転機に。

翌年、80歳になってから「語り部」活動を始めました。

(三瀬 清一朗さん)
「(NGOの活動で)ベネズエラに行って、日本がどこにあるか知っているか聞いた。すると知らない(と言われた)。日本のことを知らなかったら当然、広島と長崎の原爆のことも知らない。そうしたらもっと我々は、体験を話しておかないといけない」

活動では、県内の小中学生や修学旅行生らに対し、自身の体験を伝えています。

(三瀬 清一朗さん)
「戦争や原爆を体験している人にとって平和というのは、“当たり前の生活ができる” というのが平和だと思っている」

「平和への誓い」への応募は、子どもたちの反応がきっかけだったそうです。

(三瀬 清一朗さん)
「“元気な間は、原爆を知らない人たちに(三瀬さんの)話をどんどんして下さい” というメッセージが書いてある。これが私の今回 被爆者代表として応募する1つのポイントになった」

一方で、活動をつまで続けられるか不安もあるといいます。

今、大きな期待を寄せるのが「若い世代の活動」。

3年前には、長崎大学核兵器廃絶研究センター(=レクナ)の若手研究員が行った 被爆前の長崎の様子を伝える取り組みに協力しました。

三瀬さんの幼少期の写真などが活用され、その資料は「デジタル教材」として公開されています。

(三瀬 清一朗さん)
「若い世代が核兵器や戦争、原爆のことをイベントとしてやっているのはいいことだと思う。私たちみたいな語り部がまだいるから、いるうちに後に残すための方法をとらないといけない」

ウクライナやパレスチナ・ガザ地区など、世界で、戦火が絶えない中 迎える8月9日。

未来の子どもたちが平和に暮らしていけるように…。

平和祈念式典で思いを伝えます。

(三瀬 清一朗さん)
「平和というタネを子どもたち1人1人に話を通じて1粒ずつまいている。
現在の世界情勢から見れば、“本当に花が咲くか” は疑問だけど、誰かが声出して動かないことには、核保有国だけで話を進んでしまう。
被爆体験したあの戦争の忌まわしさ、いかに平和がありがたいかを皆さんに訴えていく。この方法しかない」