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【戦後80年】男鹿市の山に墜落したB29 唯一の生存者と助けた住民とのやりとり "記憶の風化"を考える

2025年1月22日 17:43
【戦後80年】男鹿市の山に墜落したB29 唯一の生存者と助けた住民とのやりとり "記憶の風化"を考える

終戦から80年となる今年、日本テレビ系列各局は、「いまを、戦前にさせない」をテーマに特集をお伝えしています。

今回は、終戦後まもなく男鹿市にある山に墜落したアメリカの爆撃機B29の唯一の生存者と、助けた住民のやりとりを通して、戦争の記憶の風化について考えます。

墜落後の出来事や、その後の交流、当時を知る住民は、数少なくなっていて、戦争の記憶を伝える遺構も、老朽化が進んでいるものもありました。

■慰霊碑に記された80年前の出来事

標高715メートルの、男鹿市の本山の頂上付近。

爆撃機B29に乗っていた、アメリカ兵の慰霊碑が残されています。

終戦からまもなくして、この近くで起きた出来事。

そのあらましが、慰霊碑に書き記されています。

太田朋孝 記者
「こちらには、日米親善と平和を祈念してこれを建てると刻まれています」

さかのぼること80年、1945年の8月28日。

B29が、捕虜を収容していた大館市花岡に、食料などの物資を届けるため、男鹿市の加茂青砂地区の上空を飛んでいました。

霧で視界を失って、本山に激突したB29。

原型が分からないほどに機体がバラバラになりました。

ふもとの海辺で暮らす加茂青砂地区の住民は、総出で乗組員の捜索と救出に向かいました。

乗っていた12人のうち11人が死亡しましたが、ただ一人、生きた状態で見つかった少年兵がいます。

ノーマン・H・マーチンさん。

当時19歳でした。

当時のインタビュー(加茂青砂地区の住民)
「警防団が最初に集まって、山さ向かったんですわ。だども、どうしてもほれ、木多いで、どうもこうもなんねぇからこれだばとってもじゃねぇなということで、この部落民全部招集したの。それでナタたがえたりカマたがえたり行ったもんだから、このノーマン軍曹、ほれ、最尾翼のほうで助かっていたども、殺されるかと思ってびっくりしたんだな」

「敵国でね、戦争した相手だったもんだから。まぁこの、加茂部落の人の話によればね、まぁ殺してしまえとか、うん、なんとかっていうようなね、話もされてあったと。まぁ当時のね、国民感情からすれば、そういう考えがあっても、あながち不思議でもないしね、なんだけども。ただ、今、こういう平和になってね、お互いが協力していかなければならない時代ですから。いつまでもそういうことにすがりついてね、憎しみあったってしょうがないし」

けがをしていたマーチンさんは、救出されたあと、加茂青砂へ。

当時、小学校だった建物で手当てを受けるなどして、体を休めたといいます。

こうした出来事を知る人を探して、加茂青砂の住民が集まる年に一度の総会が終わったあとに話を聞きました。

菅原繁喜 相談役(81)
「親から聞く話では、やっぱり死んだ、亡くなった人は、昔はあの米俵60キロ入り。60キロ入る米俵であったべ。あれさみんな死人どこ入れて、上の山からごろごろと転がして」

石川芳恵さん(94)
「年いった人行ったんだ。ここさな。したら1人助かったんです。1人助かって、住宅さ連れてきたども、ごちそう食べさせるって言っても、とっても食わね。悪いものだからと思ってな。なんも食べねかった」

菅原 相談役
「人間だものよ、戦争はどうのこうのっていう問題でないと思うんだな」
大友捷昭さん(80)
「まさかなんぼ敵であったって死にそうな人な、かわいそうで、やっぱり助けるのがやっぱり人間でないかな」

■唯一生き残った男性 地元住民との再会

墜落から生き残ったマーチンさんの、その後の映像が残されています。

35年前の1990年。

アメリカに戻ってからの消息が分かったマーチンさんを「男鹿ロータリークラブ」が招きました。

結婚し、64歳で妻とともに加茂青砂を訪れたマーチンさん。

マーチンさん
「何人の人が私を助けてくれたんでしょうか」

胸に宿していた感謝の思いを、直接、住民たちに伝えました。


マーチンさん
「とてもとてもうれしいです。夢がかなった。本当に夢のようです」

マーチンさんは、航空自衛隊のヘリコプターで、墜落の現場付近も見て回りました。

マーチンさん
「うれしいと同時に感謝している。1945年と同じ場所に同じルートで連れて来てくれたことに」

亡くなった11人の供養をしたマーチンさん。

この時、現場近くに慰霊の標柱が建てられました。

その後、長く保存するために、石柱に建て替えられています。

マーチンさん
「もう二度と戦争が起こらないことを祈っている。孫や子どもたち、将来の世界中の子どもたちのために。日本もアメリカも戦争をせず、世界の平和が続くように、一緒に歩み続けなければならない」

関係者によりますと、マーチンさんは、2012年に86歳で亡くなりました

■記憶の風化を考える

B29にまつわる出来事。

加茂青砂でも語り合う機会が少なくなっています。

菅原繁喜 相談役
「高齢者ばっかりなものだから、人が集まらない。集まらないことには話のしようがないのよ」

大友捷昭さん(80)
「映像でもとっておかないと、伝える人がいなくなってるものほら。それで困る」

80年前の墜落と、35年前の交流から得られた教訓。

後世に伝える慰霊碑が、旧加茂青砂小学校の近くにもあります。

しかし。

太田 記者
「こちらB29という文字は読めるんですが、そこから下は何が刻まれていたか分からない状態になっています」

長い年月を経て「和平」の2文字も薄れていました。

80年前の記録をいまに伝える戦争遺構も、記憶の風化に警鐘を鳴らしています。

ABS秋田放送では「いまを、戦前にさせない」をテーマに、今後も様々な企画をお伝えしていきます。

戦争に関する日記や写真、映像などの資料をお持ちの方は、こちらの二次元コードから情報をお寄せください。

最終更新日:2025年1月22日 19:43
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