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【皇室コラム】歴代天皇の教えに学ぶ天皇陛下

2022年4月24日 11:00
【皇室コラム】歴代天皇の教えに学ぶ天皇陛下
天皇陛下(当時皇太子さま)57歳の誕生日記者会見 2017年2月

天皇陛下が記者会見で繰り返し名前を挙げられる天皇がいます。戦国時代の後奈良天皇と、鎌倉時代の花園天皇です。そこからうかがえるのは歴代の天皇の歩みに学ぼうとされるひたむきな姿勢です。(日本テレビ客員解説員 井上茂男)

【皇室コラム】「その時そこにエピソードが」第17回 歴代天皇の教えに学ぶ天皇陛下

■名古屋駅で聞いた退位のメッセージと前日の視察

2016(平成28)年8月8日午後3時。天皇だった82歳の上皇さまのビデオメッセージがテレビで全国に一斉放送されました。

「次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じています」

江戸時代の光格天皇以来202年ぶりの生前退位に向けた動きが、この日から始まりました。皇太子時代の天皇陛下がメッセージを聞かれたのは、愛知県での公務を終え、帰京の新幹線を待っていた名古屋駅でした。

「厳粛な思い」で、とても心を揺さぶられながら聞かれたそうです。

注目すべき視察が前日にありました。愛知県西尾市にある「岩瀬文庫」への訪問です。

国の重要文化財に指定されている後奈良天皇の「宸翰般若心経(しんかんはんにゃしんぎょう)」を見て、「美しい宸翰ですね」と話されました。「宸翰」は天皇の直筆の書き物のこと、「般若心経」は「色即是空(しきそくぜくう)」などの一節で知られる260字ほどの短い仏典です。

16世紀中頃の、戦国時代の後奈良天皇は、皇室が最も窮乏していた時代の天皇です。財政の逼迫(ひっぱく)で即位礼を挙げることができたのは10年後。

『歴代天皇総覧』(笠原英彦、中公新書)には、天皇の直筆がたやすく売り買いされ、御所の簾(すだれ)に紙を結び、銅銭などを添えて手に入れていたという逸話が紹介され、窮乏のほどがわかります。

そんな状況の中でも後奈良天皇は学問や修養を決して怠りませんでした。

洪水などの天候不順による飢饉(ききん)や、疫病(えきびょう)の流行に心を痛め、苦しむ人々のために自ら「般若心経」を書写し、諸国の寺社に奉納しました。

そのいくつかが岩瀬文庫などに残っています。

■「徳を行き渡らせられない」と心を痛めた後奈良天皇

後奈良天皇の「宸翰般若心経」の中には、「私は民の父母として徳を行き渡らせることができず、心を痛めている」という心情が奥書にしたためられたものがあります。

こうした宸翰は、紺色に染めた紙に金粉をニカワで溶いた金泥で書かれています。

古筆学者の小松茂美氏の『天皇の書』(文春新書)によると、金粉の重い粒子を筆先に含ませての金字(こんじ)写経は筆運びが難しいそうです。ところが後奈良天皇の筆致は謹厳重厚で、習熟の妙技がうかがえ、小松氏は「国王として国民を救済せんとする至情(筆者注=まごころ)がまざまざと流露する」と解説しています。

上皇さまのメッセージから半年後に巡ってきた2017(平成29)年2月の記者会見。

陛下は、後奈良天皇が宸翰の奥書にしたためた心の痛みなどに触れ、「先人のなさりようを心にとどめ、国民を思い、国民のために祈るとともに、両陛下がまさになさっておられるように、国民に常に寄り添い、人々と共に喜び、共に悲しむ、ということを続けていきたい」と話されました。

その上で、ビデオメッセージを聞いた日のことを振り返り、「私が、この後奈良天皇の宸翰を拝見したのは、8月8日に天皇陛下のおことばを伺う前日でした。時代は異なりますが、図らずも、2日続けて、天皇陛下のお気持ちに触れることができたことに深い感慨を覚えます」と述べられました。

翌2018(平成30)年の記者会見でも、陛下は後奈良天皇の宸翰のことを話されました。

三條天皇の没後1000年などに当たって3人の事蹟を学んだこと、前年秋に京都の醍醐(だいご)寺で後奈良天皇はじめ多くの天皇の宸翰を目にしたことに触れ、「過去の天皇が人々と社会を案じつつ歩まれてきた道を振り返る機会も大切にしていきたいと思います」と話されました。

陛下は学習院初等科の時から「論語」の素読や漢詩、書道を学び、高等科2年になると歴代天皇の事蹟についての勉強も始められました。

事蹟の勉強には皇太子時代の上皇さまも同席されていました。

『新天皇家の自画像 記者会見全記録』(薗部英一編、文春文庫)によると、上皇さまは当時の会見で「(天皇の歴史を)知ることによって、自分自身の中に、皇族はどうあるべきかということが、次第に形作られてくるのではないかと期待しているわけです」と語り、「しみついてくる」という言葉でその意味を話されています。

陛下が花園天皇の名を記者会見で初めて挙げられたのは1982(昭和57)年3月、大学を卒業した時でした。

「誡太子書(かいたいしのしょ=太子を戒むるの書)」という戒めです。

南北朝時代の少し前、鎌倉時代の花園天皇は、皇室が「持明院統」と「大覚寺統」に別れ、交替で皇位に就いていた頃の天皇です。

『歴代天皇年号事典』(米田雄介編、吉川弘文館)によると、11歳で持明院統から即位し、約10年で大覚寺統の後醍醐天皇に譲位しますが、「まれに見る好学の君主」だったそうです。

退位して上皇になった後、兄の後伏見上皇の子で、後に光厳(こうごん)天皇となる皇太子の量仁(かずひと)親王の教育を託され、情熱を傾けました。その親王のために書き記したのが「誡太子書」です。

まず徳を積むことの必要性、その徳を積むためには学問をしなければならないと諭しました。当時22歳の陛下はこの戒めをひもといて「非常に深い感銘を覚えます」と語り、天皇や皇室のことはこれからも勉強して「今後の糧(かて)として」と話されました。

50歳を前にした2010(平成22)年2月の記者会見。陛下は若き日に「誡太子書」に感銘を受けたことを振り返り、花園天皇が求めた「学問」について、「単に博学になるということだけではなくて、人間として学ぶべき道義や礼儀をも含めての意味で使われた言葉です。私も、50歳になって改めて学ぶことの大切さを認識しています」と述べられました。

■「道標の一つ」として大切にされる歴代天皇の教え

皇室と仏教の関わりは決して過去のことではありません。

今年2月25日、「隠元(いんげん)禅師」の名前で知られる黄檗(おうばく)宗の開祖・隆琦(りゅうき)の350年忌にあたり、陛下は「眞空華光(しんくうかこう)大師」の大師号に「厳統(げんとう)大師」を加号されました。貴人や僧侶が亡くなった後、生前の行いを尊んで名を贈る「諡号(しごう)」です。

9世紀の清和天皇が天台宗の宗祖・最澄(さいちょう)に「伝教(でんぎょう)大師」、圓仁(えんにん)に「慈覚(じかく)大師」の称号を贈ったのが始まりで、今も加号の慣例が続いています。

今年2月の記者会見。改めて陛下は後奈良天皇や花園天皇の名を挙げ、こう述べられました。

「私は、過去に天皇の書き残された宸翰などから得られる教えを、天皇としての責務を果たしていく上での道標(しるべ)の一つとして大切にしたいと考えています。そして、その思いと共に皇位を受け継いでこられた、歴代の天皇のなさりようを心にとどめ、研鑽(さん)を積みつつ、国民を思い、国民に寄り添いながら、象徴としての務めを果たすべく、なお一層努めてまいりたいと思っています」

花園天皇が言う「徳」は、陛下の名前の「徳仁(なるひと)」に重なります。

「令和」の時代にも台風や地震などの自然災害が相次ぎ、新型コロナという疫病にも見舞われるなか、陛下も「徳」を積もうと努め、後奈良天皇と同様、心を痛められているようにみえます。

「NEW」を追うニュースの性格もあって、陛下が繰り返される歴代天皇に学ぶ姿勢が伝えられることはあまりありませんが、陛下は一貫して思いを語られています。

こうしてみてくると、愛知県西尾市に訪ねた後奈良天皇の宸翰は、翌日のビデオメッセージを聞くうえで心を定める大切な時間だったように思えてなりません。

【略歴】井上茂男(いのうえ・しげお)
日本テレビ客員解説員。皇室ジャーナリスト。元読売新聞編集委員。1957年東京生まれ。読売新聞社会部の宮内庁担当として天皇皇后両陛下のご成婚や皇后さまの適応障害、愛子さまの成長などを取材。著書に『皇室ダイアリー』(中央公論新社)、『番記者が見た新天皇の素顔』(中公新書ラクレ)。