紀宮さまと眞子さま~内親王の結婚(上)
上皇ご夫妻の長女、紀宮さま(黒田清子さん)の結婚は大きな祝福に包まれました。15年前を振り返り、秋篠宮さまが「認める」と話された眞子さまの結婚について考えたいと思います。(日本テレビ客員解説委員 井上茂男)
【コラム】「皇室その時そこにエピソードが」第3回「黒田清子さんと眞子さま ご結婚に思うこと」(上)
■感謝の気持ちにあふれた披露宴
2005(平成17)年11月15日。東京の帝国ホテルで開かれた紀宮さまの結婚披露宴は、指輪の交換も、ウェディングケーキの入刀も、お色直しもない、いわゆる“地味婚”でした。
友人たちの弦楽四重奏でパッヘルベルの「カノン」が流れるなか、結婚によって紀宮さまから民間の人となった黒田清子さんが、夫の慶樹さんに続いて拍手をあびて入場してきます。メインテーブルに着席された上皇ご夫妻の前で足を止めて一礼すると、上皇さまは穏やかに目を細め、上皇后さまは喜びが万感胸に迫るといった表情をみせられました。わが子の結婚を喜ぶ親心が伝わってきます。仲を取り持った秋篠宮さまも拍手で祝意を示されていました。
新婦は普通の袖丈の和服です。「母が身につけた品を着て臨みたい」と希望し、「そのようなことでいいのかしら」と戸惑われる上皇后さまと二人で選んだ、白に近いあけぼの色の一着でした。離れたテーブルでは、幼い眞子さまと佳子さまが、「ねえね」と慕う叔母の姿を見つめています。招待客は118人。御所で身の回りのお世話をしてきた女性職員や、皇宮警察の護衛官の姿も見えます。招待客の人選に清子さんの感謝の気持ちが感じられる温かな披露宴でした。
■新聞の社説もお祝い一色
当日の各紙社説は、「新たな門出をお祝いしたい」(読売)、「『清子さん』になる日」(朝日)、「温かい家庭を築いて下さい」(毎日)、「楽しく、幸せな家庭を」(東京)――とお祝い一色です。宮内庁職員や皇宮護衛官に見送られて皇居を後にしたその朝の動きも、夕刊各紙は、「『お幸せに』列島祝福 笑顔の門出」(読売)、「36年分の思い胸に 紀宮さま微笑み門出」(毎日)と大きな見出しで伝えています。その日、宮内庁が受け付けた記帳に訪れたのは約5800人。大きな祝福の中で紀宮さまは新たな道へと踏み出していったのです。
初めて紀宮さまを取材したのは、昭和天皇の喪が明けて間もない1990(平成2)年3月のことでした。神戸の造船所で行われた旅客船「にっぽん丸」の命名・進水式。紀宮さまが斧で綱を切ると、紙吹雪のなかで2万2000トンの大きな船が海へと滑り出て行きます。3000人が見つめる先で紀宮さまは緊張して見えました。当時は大学2年生。成年皇族としての活動が始まったばかりでした。
1か月後、昭和天皇の喪中で延期されていた成年の記者会見で舌を巻きました。「皇室は祈りでありたい」。上皇后さまの言葉を引き、皇室像について「ある大切なことに対して、いつも、そして長く心を寄せ続けるということを私は日本の皇室の姿として心に描いております」と話されました。初めは消え入るような声でしたが、メモなしでよどみなく話され、驚いたものでした。「祈り」という皇室の姿は、この時、紀宮さまから教わりました。
■存在感ある「ドンマーインさん」
上皇后さまが声を失った時の支え、上皇さまがガンの手術を受けられた時の献身的な看病、天皇陛下の「人格否定発言」後の上皇さまとの仲介役……。存在感は格別でした。上皇ご夫妻に何かあると、『気にかけないで』とささやく“ドンマーインさん”でもありました。
ご結婚直前、宮内庁にはお祝いムードの中に寂しさも感じられ、正直に「心に穴があいたような感じです」と話す職員もいました。披露宴の3日前に行われた「朝見の儀」。お別れの儀式が終わって上皇ご夫妻が退出されて扉が閉まっても、紀宮さまはなお扉を3秒ほどじっと見つめ、静かに別の扉から松の間を後にしました。扉の向こうとこちら。その時の光景が鮮明に思い出されます。(続く)
【略歴】井上茂男(いのうえ・しげお)日本テレビ客員解説委員。皇室ジャーナリスト。元読売新聞編集委員。1957年生まれ。読売新聞社で宮内庁担当として天皇皇后両陛下のご結婚を取材。警視庁キャップ、社会部デスクなどを経て、編集委員として雅子さまの病気や愛子さまの成長を取材した。著書に『番記者が見た新天皇の素顔』(中公新書ラクレ)。
◆動画は「紀宮さま(黒田清子さん)と黒田慶樹さん 結婚披露宴」(2005年11月15日 帝国ホテル)