ソ連捕虜として“シベリア抑留”…命つないだ「黒パン」とは?
秋田にあるベーカリーで伝統として作り継がれているロシア生まれの「黒パン」。そこから見えたのは、“シベリア抑留”の凄惨(せいさん)な記憶でした。
秋田県大館市にあるベーカリー「サンドリヨン」。この店で月に100本売れるという看板商品が、ロシアが発祥地の1つといわれる「黒パン」です。酸味の効いた味わいが特徴で、ロシアの製法で作るのは国内では珍しいといいます。
三代目店主・小笠原光治さん(74)
「長崎からわざわざ、遊びがてら(買いに)来たという人もいらっしゃいますね」
「ウクライナから避難されてきた方たちが『食べたい』と」
今ではロシアの軍事侵攻から逃れてきた人からも注文が入るといいます。
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愛され続ける伝統の味。しかし、そこには繰り返される“戦争の記憶”が深く染み込んでいたのです。
茨城県に住む三村節さん(99)。ここ20年、米は食べず、この黒パンを食べているといいます。
三村節さん
「注文書を見ると1か月に10本。この黒パンはお墓に行くまで食べてます」
そこまでこだわる理由、それは…。
三村節さん
「(シベリアに)11年いる間、これを毎日食べてたんです。どこ行っても、これです。帰ってきてから今度は思い出して食べ始めてしまって」
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第二次世界大戦で敗戦した日本。ソ連軍の捕虜として、およそ58万人がシベリアへ連行されました。冬にはマイナス30℃を超える酷寒の地。凄惨な強制労働が行われ、6万人もの命が失われました。
三村節さん
「住む家もないので、20kgもの重い荷物を背負って歩いて、夜間作業で材木を切り出して、自分の住む家を建てる…そういう生活から始まった」
満州で職に就いていた三村さんは、1944年に戦線へ。翌年、終戦を迎えると、22歳の若さでシベリアに抑留されたのです。
三村節さん
「自分たちはもう日本とは関係がなくなった…と、本当に地獄の思いをしました」
心と体をむしばんだのは、寒さと強制労働だけではありません。
三村節さん
「空腹というのは人間の気持ちを狂わせますからね。人のものを盗んでも食べたい、それから何でも食べられるものは拾って食べる」
気が狂うほどの空腹…次々と死んでいく仲間たち。目前に広がるのは“絶望”でした。
三村節さん
「悲しみで涙が出るとか、そういう雰囲気じゃなかったですよ。もう亡くなったら『そうか亡くなったか』というだけで、本当に極限の状況ですから…」
耐え忍ぶこと11年、転機が訪れました。日ソ停戦交渉により、帰国が決まったのです。その後、自伝を執筆し、黒パンの“重み”をこうつづっていました。
『私たちにとってパンは命に等しい』
命をつないだ黒パン。今では人生の一部として、抑留の記憶をつないでいます。
あれから77年。三村さんの目に映る今のロシアとは…。
三村節さん
「歴史の反省が足りない。許せないというより、信じられん。なんで戦争に訴えるのか。そんなことは世界が抑え込まなきゃいけないと思う」