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壮絶“シベリア抑留”の記憶 命をつないだ『黒パン』とは? 「戦争は無意味」食べ続ける99歳男性が伝えたいこと

2022年7月30日 18:33
壮絶“シベリア抑留”の記憶 命をつないだ『黒パン』とは? 「戦争は無意味」食べ続ける99歳男性が伝えたいこと
ロシアの伝統「黒パン」

秋田にあるベーカリーで作り継がれている、ロシア生まれの「黒パン」。全国から注文が入る、店の看板商品です。

日本テレビ『news every.サタデー』の企画「ソ連捕虜として“シベリア抑留”…命つないだ『黒パン』とは?」 では、このパンを食べ続ける99歳の男性を取材。思い出すのは、“シベリア抑留”の凄惨な記憶でした。

■ロシアの伝統「黒パン」とは?

ライ麦で作られ、ハードな食感と酸味のきいた味わいが特徴の「黒パン」。ロシアは、その発祥地の1つといわれている。

■全国から黒パンの注文が入る秋田のベーカリー

秋田・大館市にロシア生まれの黒パンを作り続けている店がある。現在で3代目となるベーカリー「サンドリヨン」。ロシアにゆかりのあった先代の思いを引き継ぎたいと、創業から続く伝統を守っているという。

店主 小笠原光治さん(74)
「九州からも注文がきたり、奈良や京都・大阪が多いですね。この間は、わざわざ長崎から遊びがてら来た人がいました」

国内でロシア製法の黒パンを作り続けているベーカリーは珍しく、この店の黒パンは全国に“根強いファン”がいる看板商品だ。さらに今では、ロシアの軍事侵攻によってウクライナから避難してきた人からも注文が。

小笠原光治さん
「できる限り、ロシアの製法で黒パンを残し続けたい。自分の国を追われた人は大変だろうから、少しでも協力できれば」

国を超えて愛される伝統の味。取材を進めると、そこには戦争と深いつながりがあることがわかった。

■黒パンがつなぐ“シベリア抑留”の記憶

「自分は、もう日本とは関係ないと思っていました」。こう語るのは、茨城県・水戸市に住む三村節さん(99)。20年以上米は食べず、サンドリヨンの黒パンを食べ続けているという。

三村節さん
「注文書を見ると毎月10本という感じです。ここの黒パンはお墓に行くまで食べます」

三村さんがそこまで黒パンにこだわる理由。それは…。

三村節さん
「シベリアに11年いる間、毎日食べてたんです、どこ行ってもこれです。帰ってきてから思い出して、それを食べ始めてしまって」

三村さんにとってサンドリヨンの黒パンとは、戦争と11年間に及ぶ壮大な“シベリア抑留“の記憶をつなぐものだったのだ。

■シベリア抑留とは

1945年8月15日、日本は第二次世界大戦に敗戦。当時、満州にいた日本兵はソ連軍によって即時武装解除させられ、シベリアへ連行。厚生労働省によると、その数およそ58万人。冬にはマイナス30度を下回る酷寒の地で、森林伐採や住居作りなどの強制労働が行われ、およそ6万人の命が失われた。

■就職で満州へ…待っていたのは戦争と抑留

1923年、8人の兄弟姉妹という大家族に生まれた三村さん。戦時下の貧しさから抜け出そうと、18歳で満州へ渡り職に就いた。しかし3年後、ソ連軍の侵攻を受けて戦線へ-。翌年の1945年、そのまま敗戦を迎えた。

三村節さん
「負けるなんていうことは全く考えていなかった。『負けとは本当か?』と信じていなかった」

そして同年11月。三村さんは22歳という若さでシベリアへ抑留された。

■見知らぬ極寒の地での強制労働

三村節さん
「住む家もないので、20kgもの重い荷物を背負って歩いて、夜間作業で材木を切り出して、それから自分の住む家を建てる…そういう生活から始まった」

連れて行かれたのはバイカル湖の手前にある村。冬の気温はマイナス30度から40度にもなる。住む家すらない中、節さんたちは夜な夜な直径30~60cmにもなる大木を切り崩していった。

三村節さん
「ちょっと外に出たら呼吸が困難になる」

体力が衰え、倒れてくる大木をよけられずに、大ケガをする事故が多発した。中には大木に打たれて即死した仲間もいたという。

三村節さん
「悲しみで涙が出るとか、もうそういう雰囲気じゃなかった。もう亡くなったら『そうか、亡くなったか』というだけで、本当に極限の状況ですから」

一日8時間の強制労働。その間の食事を三村さんは帰国後にこう記していた。

「朝食には塩漬けのトマトかキャベツにジャガイモの入ったスープ。塩魚一切れ。主食の黒パンが大事だ。弁当箱には塩漬けの魚一切れだけ」(『シベリア~抑留・あれこれ~』より)

精神状態はまともではなかったという。

三村節さん
「空腹というのは人間の気持ちを狂わせますからね。人の物を盗んでも食べたいという、それから何でも食べられるものは拾って食べる」

気が狂うほどの空腹…仲間は次々と死んでいった。

三村節さん
「山の中の収容所で伐採の仕事をしていたときでした。仕事から帰ってきて、変なにおいがすると思ったら、仲間のポケットから馬糞がでてきた。本人はジャガイモかと思って、それを持ち帰ってきていたと。そして、そのまま死んでしまった」

死が迫る日常。三村さんは後に、黒パンの“重み”を自伝にこう記していた。

「黒パンは私たちの命に等しかった」(『シベリア~抑留・あれこれ~』より)

■突然の投獄 スパイ容疑で25年

絶望に追い打ちをかける事態が起きた。1947年、ソ連当局に拘束されたのだ。仲間が、ソ連の情報をアメリカへ売り飛ばすことを策略し、スパイ容疑をかけられた三村さん。判決は“25年の強制労役”。

シベリアからさらに奥地へ連行され、最終的にふるさとから1万km以上離れたヴォルクタ(ロシアの北端)にあるラーゲリ(刑務所)へ投獄された。

三村節さん
「国に帰りたいという気持ち、これは夜寝てからも夢を見る、それから朝から晩まで頭を離れない」

■日ソ停戦交渉 そして帰国へ

しかし1956年8月、再び転機が訪れる。日ソ間で停戦交渉が行われたことで刑期終了前に帰国の途へ。京都府・舞鶴港で家族と再会を果たした。

三村節さん
「帰るなんてことは全く思いもよらない、そこで一生終わるということを覚悟したんですがね」

■「戦争は無意味 話し合いで解決を」

22歳から33歳までの11年間。三村さんは戦争と抑留に人生を奪われた。

三村節さん
「戦争くらい、ばかなことはないですよ。なんのために人を殺し、殺されるのか。とにかく戦争というものは無意味。全世界で話し合いによって平和を訴えるべきだと思う」

戦争への思いを語ったその目は、鋭かった。