母が倒壊家屋の下敷きに 72時間後に救助も…願い届かず 一人残された息子の思いとは
大規模火災など、大きな被害を受けた輪島市。倒壊した家から72時間後に奇跡的に救助され、その後亡くなった母。
片付けに追われていた長男は今、少しずつ前に向かって走り出していました。
ある日の夕方。金沢市内の公園に、ランニングをする一人の男性の姿がありました。
外武志さん、61歳です。
外 武志さん
「自分もずっとランニングをしていたのが、ずっとできていなかったのがようやく。震災前に戻っているかって言ったらそうではないですけどね。1月は元旦の日の午前中かな、地震の前に10キロぐらい走ってるんですね。全然自分でも1月1日に走った記憶は無いんだけども」
半年前、武志さんは、母・節子さんと、たった一人の弟・忠司さんを地震で亡くしました。
輪島市の自宅でお正月を過ごしていた2人。地震で倒壊した家の下敷きになり、3日後、忠司さんは遺体で見つかりました。
一方、節子さんは...
「お母さんよう頑張ったね!」
生存率が急激に下がるとされる72時間後、意識がある状態で救助されました。連絡を受けて病院にかけつけた武志さん。
最後に、母親に会うことができました。
外 武志さん
「僕らが行ったときには、「もしもし」電話してくれてありがとうっていうそういう言葉だったんですよ」
「はっきりしたいつもの母の口調で、母の声で大きさも含めて」
しかし、それからほどなくして節子さんは息を引き取りました。
「クラッシュ症候群で残念な結果になりましたけど最後声も聞けたし。会話はできなかったけど声は聞けたし。あたたかい体にも触れられたし。それは…感謝ですね」
夫を早くに亡くし、女手ひとつで兄弟を育て上げたしっかり者の節子さん。
「曲がったことが嫌いな人だったんで、厳しく育てられましたね。大きくなってからは身体のこととかすごく気にして、自分の体も大切にしてたけど、子どもらの身体を心配してくれていましたね」
地震のあと、毎週のように輪島に通い、片付けをしていた武志さん。節子さんが作り続けてきた家族のアルバム。元自衛隊員だった忠司さんの写真も見つかりました。
片付けを徐々に進めていた4月、
「自宅の方が、急きょ隣が仮設住宅が立つことになって、邪魔になるってことで」
思い出の家は、緊急の公費解体の対象に。
外 武志さん
「解体が早まった分一気に荷物を出さなきゃいけなくなって。とにかく出せる物は出して、持ってきてから考えようかということで。なのでゴールデンウイークの間は毎日往復して、ゴールデンウイークのちょっと前くらいからはもう毎日往復してました」
5月上旬に始まった解体作業。わずか2週間ほどで、思い出の家は更地になりました。
「小さい頃からそこにいたものが無くなったっていう寂しさもあるし、自分の中では一つの区切りになるし、まだまだ手がつけられない家が沢山ある中で、先にやって頂いて申し訳なさと、3つが入り組んでいる感じ」
「これは今汚いんで玄関に置いてるんですけど、(かかってたやつ?)じゃないかな」
節子さんが好きだった掛け軸。季節や行事によって飾るものを変えるほどです。
「これが今回一番最後に出したものですね。普段はこれはメインで、他にもあるんだけど、なぜかこれ一番大事にしていたやつですね。半年間あの中で、よく破れずに残ってたなぁと思って。そんな良いものではないんだろうなという気はするんですけど、まあ迫力あっていいんじゃないですかね。だからこれは直して、家でもかけて置こうかなと」
しかし、武志さんの心には、まだ引っかかっていることが。
輪島市にあるお墓は地震の影響で倒壊したまま。2人の遺骨はもうすぐ新盆を迎える今もまだ納められていません。
外 武志さん
「お墓が直せてそこにお骨を入れて、そしたら自分の中では一区切りかなって気はしますね」
あの日以来、再び走り始めた武志さん。
外 武志さん
「もうずーっと走ってなかったんですけどようやく。体もなまっていくし、気持ちも滅入っててもしょうがない」
目標は10月の金沢マラソン。2人にその姿を見てもらいたいと走ります。
外 武志さん
「まあまだその震災前に戻っているかっていったらそうではないですけどね。かといって前に進まなきゃいけないんで、止まっていては何も変わらないので、ちょっとずつ進みながら、自分のところも落ち着いたら、何か輪島に恩返しできることがあれば良いなと思うんですけどね」
あの日から止まっていた時間を再び動かそうと、武志さんは少しずつ、前へと走り出しました。