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【特集】能登の高校生が気仙沼で過ごした夏 伝えたかったのは未来の姿「きっと支えてくれる存在がある」

2024年8月28日 20:15
【特集】能登の高校生が気仙沼で過ごした夏 伝えたかったのは未来の姿「きっと支えてくれる存在がある」
8月4日
「ようこそ」

気仙沼にやってきたのは石川県内の高校生。
今年、能登半島地震に見舞われた11人は、東日本大震災からの復興を歩む現状を学ぼうと、夏休みを利用してやってきた。
迎え入れたのは気仙沼出身の大学生。

当時、幼稚園で被災した大学生が企画「いろんな人の支援で、私が生きている」

震災を経験した9人は地元の復興に携わるなか、「能登半島地震に遭った高校生たちが希望を持つきっかけになれば」と、今回の取り組みを企画した。

大学生の1人、岩槻佳桜さん。

当時、5歳だった岩槻さんは、幼稚園で被災。
それまでと同じ生活ができなくなるなか、前を向くことができたのは「地域の外」からの支援だった。

岩槻佳桜さん
「いろんな人から支援していただいて、こうやって私が生きているんだっていうことを知った。いま立場的にも、何かできることがあるんじゃないかと思って」

震災から13年。
気仙沼の復興の歩みを自分の肌で感じてほしい。3日間の体験プログラムが始まった。

気仙沼生活2日目。

この日は高校生がそれぞれ希望したコースで気仙沼の現状を学ぶ日。
岩槻さんは防潮堤について知りたいと言う高校生に付き添った。

「みんなの大事な砂浜を残そう、守ろう」

気仙沼市議会議員 三浦友幸さん
「やっぱり当時、防潮堤を作るのか作らないかで、すごい住民が揉めたり対立した」

防潮堤の建設に携わった、気仙沼市議会議員の三浦友幸さん。
住民同士が対立するケースもある中、そうでなかった地域もあったと振り返る。

気仙沼市議会議員 三浦友幸さん
「大谷地区の防潮堤が欲しい人もいるし、いらない人もたくさんいて、みんなの大事な砂浜を残そう、守ろうというところでみんな一致団結して地域が対立しなかった」

結果として、海沿いの国道をかさ上げし、防潮堤の役割と海が見える環境を維持した大谷海岸。
この地域で育った岩槻さんは、実際に現地を案内する。

見せたかったのは大谷海岸の現状。そして、伝えたいことがあった。

13年前、気仙沼がどんな状況だったのか…岩槻さんが見せたかったもの

岩槻佳桜さん
「このバックの中に上靴を入れて、これをもって逃げなきゃいけないってなって。実際に避難の時に持っていたバッグが残っているから見せたいと思って持ってきた」

手にしていたのは当時5歳の岩槻さんが避難した時に持っていたバッグ。

13年前、気仙沼がどんな状況だったのか。岩槻さんはより現実味をもって震災の記憶を伝えたいと考えている。

岩槻佳桜さん
「きょうの経験は活かせそう?」

河原清二さん
「ただの無機質な防潮堤じゃないものができるんだなと思った。自分の地元もこれから復興して新しいものができてくると思うけど、こういう風にみんなの意見が集まったものができたらいいなと思う」

迎えた、最終日の朝…。

「人って、一人では生きていけないけど…」

「いただきます!」

気仙沼で最後の朝ごはん。
今回、宿泊先となったのは唐桑半島の民宿「つなかん」。
女将として切り盛りする菅野さんも気仙沼のことを伝える1人だ。

唐桑御殿つなかんの女将 菅野一代さん
「震災当時は、立ち直れなかったしばらく。家も津波が3階まで入った。すべてを流されて、着の身着のままで避難所に行って」

絶望的な状況を前にしながらもなんとか家族で歩み続けた菅野さん。しかし、さらなる悲劇が重なる。

唐桑御殿つなかん女将 菅野一代さん
「私の旦那と長女と義理の息子の3人が乗った船が海難事故にあって、亡くなるということが7年前に起きた」

あまりの出来事に、立つことすらできなかったという菅野さん。
支えてくれたのはボランティアをきっかけに気仙沼に来た移住者だと言う。

菅野さん
「人って、一人では生きていけないけど、必ず周りに支えてくれる人がいると本当に生きることができる」

菅野さんが伝えたかったことは岩槻さんと同じ。

どんなに辛い状況にあっても、「きっと支えてくれる存在がある」ということ。

「いってらっしゃい」

あの日もらった支援を、能登半島の未来につないでいく

気仙沼での3日間で感じたことを、高校生たちはふせんに記していった。

震災から13年。
被災地と思っていた気仙沼は、想像していたよりもはるかに活気があり、それは能登で暮らす高校生にとって、これから歩むべき姿として捉えられたようだ。

そして、別れの時・・・

岩槻佳桜さん
「みんな気仙沼に来てくれてありがとう。これからもがんばって」

あの日の支援を、能登半島の未来につなぐ

「最初に出会ったときは、知らない地に行くから不安な顔色だったが、帰るときはみんな笑顔で帰って行ったから、今後も交流を続けて、能登の街のため、気仙沼の街のため、未来のために何かできたらと思う」

「私たちにできることはないだろうか」

あの日もらった支援をつないでいくことが、能登半島の未来につながると信じている。

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