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【特集】「仙台空襲」経験した91歳女性 戦後79年の今、伝えたいこと

2024年7月10日 20:20
【特集】「仙台空襲」経験した91歳女性 戦後79年の今、伝えたいこと

仙台空襲を経験 広瀬喜美子さん
「雨が降ってくるような音がするの。焼夷弾が途中まで束になってくるらしい。それがバラバラって雨のように降ってくる。それがバーンとばらける」

戦前の仙台市中心部の街並み

これは戦前の仙台市中心部の街並み。
古い建物に交じって西洋建築の商業ビルが目を引く。
現在の大町周辺にも多くの住宅が立ち並んでいた。

その近く広瀬川にかかる大橋は戦前からの姿のままいまも残されている。
当時、付近に暮らしていた、現在91歳の広瀬喜美子さんに話を聞いた。

仙台空襲を経験 広瀬喜美子さん
「自動車が並んでいる。あそこが私の家だった」

広瀬さんの自宅は川のほとりにあった。

「だんだん食べるものがなくなってくる」

太平洋戦争が始まったのは小学3年生の時だった。

仙台空襲を経験 広瀬喜美子さん
「だんだん食べるものがなくなってくる。当たり前のように。小学校4年生から甘いお菓子なんて食べたことない」

川を挟んだ川内地区には旧日本軍の第二師団司令部があった。

当時の仙台は「軍の都」女学生は軍需工場へ

仙台からも多くの兵士がガダルカナルなどの激戦地へ出兵し命を落とした。

仙台空襲があった1945年、広瀬さんは当時12歳、現在の中学1年。
仙台市中心部にあった宮城女学校、現在の宮城学院に通っていた。

仙台空襲を経験 広瀬喜美子さん
「門入ったところに噴水があったモクレンの木があって。上級生3年生は多賀城で勤労奉仕。高校生は横須賀に行っていた。男の人は兵隊にとられているから女が働かなくてはならない」

仙台市の郊外に移転した宮城学院。
戦時中の学校の歴史を調べた大平聡特任教授はこう語る。

作っていたのは、ロケット特攻機"桜花"

大平聡 特任教授
「何をやらされたかというと、横須賀の海軍航空技術廠というのは海軍の新兵器の開発部局で当時は、"桜花"というロケット特攻機。従事していた当時4年生が”どうやって使うか”と聞いたら、パイロットが乗って敵の船に突っ込んでいく。”それじゃ自爆じゃないですか。そんなの作るの嫌だ”と言ったらしい。そうしたら引率の先生から怒られたと言っていた」

太平洋戦争の末期、宮城学院では現在の高校生にあたる生徒約200人が学徒勤労動員として軍需工場などで国のために働かされた。

1945年7月10日午前0時3分

仙台の上空に現れたアメリカ軍のB29爆撃機123機が2時間にわたり1万3000発もの焼夷弾を投下した。

広瀬さんは父が自宅の庭に作った防空壕に母と3人で逃げ込もうとした。
しかし想定外の事態が起こる。

広瀬喜美子さん
「父が作った防空壕だったが、近所の人がみんな入っちゃって私たち3人は入れない。それで桜の木の下で伏せてた。小さくなって。」

アメリカ軍は現在のアーケードを爆撃中心点として定め空襲を行った。

約500ヘクタール、1万1900戸あまりが炎に包まれ、町は焼け野原となった。
犠牲となった市民は1000人以上にのぼるとされる。

あの日に見た光景はいまも忘れない

広瀬さん家族3人は奇跡的に命を取り留め、自宅も焼けずに残った。
しかしあの日に見た光景はいまも忘れないという。

広瀬喜美子さん
「死んだ人が防空壕から引き出されたりして。そういうの見たくなかったんだけどね。ほんとに戦争だけはもうやってもらいたくない。本当に嫌だ。」

広瀬さんは80歳を過ぎてから仙台空襲の体験を語り継ぐ活動を始めた。

「教育って、恐ろしい。」

広瀬喜美子さん
「空襲を受けていながら、戦争がない平和な時代ってどういうものか思ったことがない。教育って、恐ろしい。そういう風に教育されていた。」

当時の広瀬さんは日本が戦争を行うことに疑問を持たなかったと言う。
そして8月15日、広瀬さんはラジオで終戦を知る。

広瀬喜美子さん
「窓も黒いカーテンをかけて外に光漏れないようにしてたけど、明日から黒いカーテンをかけることもない」

その後、広瀬さんは空襲で被災した学校の後片付けに向かった。
空襲の被害を免れた宮城女学校の噴水は、いま桜が丘にある宮城学院に移転されている。

戦後79年、広瀬さんには若い世代に伝えたい思いがある。

広瀬喜美子さん
「絶対に戦争を(しないでほしい)、自分たちが空襲を受けるような状態にしてもらいたくない」

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