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【特集】特攻隊に“超熱望”と志願「仲間は爆弾を抱いて…」生き残った後悔抱え生きた父が遺した言葉

2024年8月15日 20:10
【特集】特攻隊に“超熱望”と志願「仲間は爆弾を抱いて…」生き残った後悔抱え生きた父が遺した言葉

白石市にある人形の蔵。
昭和レトロなおもちゃなどが並べられている。

その2階、雰囲気は一変。
展示されているのは神風特攻隊を中心とした貴重な資料だ。

神風特攻隊の貴重な資料

特攻とは爆弾を積んだ戦闘機に搭乗員が乗ったまま敵艦に体当たりする作戦。
施設を管理する佐藤昌子さん。

佐藤昌子さん
「この印は亡くなった方でたくさんの方が出撃してなくなっています」

バツ印は戦死した隊員。
太平洋戦争末期に航空特攻だけで約4000人もの若者が命を落としたとされる。

「特攻隊の名前を発表されたときに一瞬心臓が止まった」

〇印、生き残った一人が宮城県白石市出身の佐藤孝一さんだ。

佐藤孝一さん
「特攻隊の名前を発表されたときに一瞬心臓が止まった。」

これは17年前の取材映像。

「その特別の瞬間瞬間。まぶたに残っている」

佐藤孝一さん
「自分の仲間がゼロ戦に爆弾を抱いて飛び出す。これは行ったらもう帰ってこない。その特別の瞬間瞬間。まぶたに残っている」

孝一さんは7年前、93歳で亡くなった。

身内に厳しく他人に優しい父だった。
そう話すのは長男の秀則さん。

佐藤秀則さん
「特攻隊員として自分が生き残ったことに対する後悔をいつも持っていたのは間違いない。」

終戦の半年前、当時21歳だった孝一さんは志願書に超熱望と記し神風特攻隊に入隊した。
派遣されたのは鹿児島県の鹿屋基地だった。

仲間を見送りながら自らの出撃を覚悟

佐藤孝一さん
「空中戦15回やるとそのうち落とされて死ぬ。命は短い。1000人2000人が道連れになる。ならぶつかってやろう、超熱望と」

孝一さんによると隊には18歳から26歳までの54人が所属。このうち40人が特攻で戦死したという。
孝一さんも仲間を見送りながら自らの出撃を覚悟していた。

しかし終戦。

佐藤孝一さん
「日本が負けたのは本当である。隊長が言った。そしたら全員が30分誰もしゃべらない」

「夢の中によく特攻隊で一緒だった方たちが出てくる」

孝一さんは故郷に戻り結婚。
終戦から8年後に秀則さんが生まれた。

佐藤秀則さん
「朝起きてくると秀則来い!と大きな声で呼ばれて、それで布団をぱっと開けてここに入れと、布団に入ると毎日朝から軍歌を歌う。それで二人で手を叩きながら軍歌を歌わされたのが、長年続きましたね」

父はずっと戦争を背負っていた。そう感じている。

佐藤秀則さん
「夢の中によく特攻隊で一緒だった方たちが出てくる。時には日本刀を突き付けられて渡されて、切腹しろと言われるとそのような話を時々親父はしていた。悔いが付いて回っていると思っていた。」

”平和は空気ではない。みんなの努力で作るもの”

孝一さんは晩年、軍服などを人形の蔵に寄贈した。
その際、”平和は空気ではない。みんなの努力で作るもの”と記している

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