“光となって導いてくれた” 笑顔絶やさぬ娘が教えてくれたこと「共に歩んだ24年の日々」《長崎》
重い障害と向き合いながら、24歳で亡くなった矢部 清子さん。
父親が本を出版しました。
笑顔を絶やさなかった娘が教えてくれたことは…。
~ 障害を持った清子が生まれてきたのは、41年前。1983年6月21日のことでした。
なんの知識も、経験もなかった私のもとに、娘は 仮死状態で生まれてきました ~
『また あの笑顔に逢えたなら』
202ページにわたる本は、この前書きから始まります。
諫早市の住宅メーカー「ヤベホーム」の社長 矢部福徳さん。
長女 清子さんの41回目の誕生日に向け、本を出版しました。
(矢部福徳さん)
「この子の笑顔で すべてが、人生が変わっていくことをまざまざと見てきたので、亡くなって16年経ったが、今回1年かけてその本を出そうと(取り組んだ)」
「水頭症」と「二分脊椎症」という 重い障害を持って生まれました。
生まれてすぐに大きな手術をし、退院できたのは 1年2か月後。
その後も 障害と病気に向き合い、入退院を繰り返す日々でしたが、“笑顔” を絶やしませんでした。
(矢部福徳さん)
「絶えず 笑っている。 気遣って笑っているのかなと。
大変な自分をあまり表現しないように、安心させるように。
(娘の障害を)受け入れるまでに3年、5年かかったが、この子がいたから、自分の人生も いい人生だった と言えるように頑張ろうと(考えた)」
“この子がいたから、いい人生になった” そう言えるよう、矢部さんは 仕事に励み、社会貢献もしたいと考えるように…。
(福祉車両贈呈式)
「送迎車、清ちゃん号の贈呈です」
清子さんが亡くなって4年後には、医療福祉施設に “送迎車” を贈呈。
『清ちゃん号』はこれまでに3台が贈られています。
また 住宅は子どもたちのためにも、健康や環境に配慮した方がいいと考え、自ら学んで提案しました。
(矢部福徳さん)
「住宅は子どもができて、初めて建てたいと思うでしょ。土佐和紙や、ヒノキの木材、珪藻土の壁」
さらにサッカー大会や植樹や森を学ぶツアー、地球温暖化防止に向けた活動も進めています。
(矢部福徳さん)
「(清子さんが)18歳や20歳の頃、(血液中の酸素不足で肌色が悪くなる)チアノーゼがあった時は、森の中に連れていく。すると 赤みがさしてくるという経験があった。森づくりは地球温暖化防止にもつながって、非常にいいことなんだと。
(12年前に)カーボンニュートラル社会の実現に向けて、いち早く取り組んだのも娘のお陰」
中学・高校に通う頃は 病状が安定していましたが、20歳の頃から少しずつ体調を崩し始めます。
~ 清子は少しずつ、弱っていった。呼吸停止が頻繁に起こるようになっていた。
その年の12月10日。ついに清子は意識を失い、諌早病院に運ばれた。23歳の冬だった。~
それから440日、清子さんの意識は戻らないまま…、24歳で亡くなりました。
本には、自身が読んだ俳句や日記、文集も…。
娘と歩んだ24年の日々。そしてその後の矢部さんの人生がつづられています。
清子さんの “笑顔” に導かれ、企業活動、福祉、スポーツ事業と、積極的に社会貢献活動を続けてきた矢部さん。
3年前には、新たな社屋も完成させました。
(矢部福徳さん)
「清子が元々いて、私がそれについてきたみたいな人生。自分の思い方によって、目指すものとか目標とか、やはり考え方を変えていくことによって、自分の人生も変わっていくんだと。私の光となって導いてくれた」
▼重い障害と向き合う子を持つ人へエール
「またあの笑顔に逢えたなら」は、1600部を自費出版。
諫早市内の書店などに並んでいて、県内の特別支援学校や全国の重症心身障害児施設にも贈ったそうです。
重い障害と向き合いながら周りの人を明るく照らした娘。
本を通して伝えたい思いは。
(矢部福徳さん)
「重い障害を持つ親ごさん。特に父親。そちらにもしエールが送れることがあれば。“社会を動かす子どもたち” なんだという思い。読んでもらいたい」
この本には、清子さんを支えた恩師や医師、看護師などから寄せられたメッセージも掲載されています。
【NIB news every. 2024年6月19日放送より】