×

100歳が語り継ぐ記憶 呉海軍工廠で戦艦大和に携わった元少年工 戦後80年の思い【NEVER AGAIN・つなぐヒロシマ】

2025年1月20日 7:00
100歳が語り継ぐ記憶 呉海軍工廠で戦艦大和に携わった元少年工 戦後80年の思い【NEVER AGAIN・つなぐヒロシマ】

かつて、軍港のまちとして栄えた広島県呉市に、戦艦大和の建造でも知られている海軍直轄の巨大な工場・海軍工廠がありました。そこに勤め、大和にも乗艦した経験を持つ100歳の男性に、今も鮮明な当時の記憶と、戦後80年を迎えて思うことを取材しました。

家計を助けるために、呉海軍工廠へ

中倉勇(なかくら・いさむ)さんは戦時中、「呉海軍工廠」に勤めていました。

■呉海軍工廠の元少年工 中倉勇さん
「大正13年10月15日。ちょうど100歳ですね。」

■呉海軍工廠の元少年工 中倉勇さん
「このドックのね、ここへ入っていました。」

それは、日本中が戦争の高揚感に包まれていた時代でした。

■呉海軍工廠の元少年工 中倉勇さん
「真珠湾攻撃のニュースが出たら、『さあ、やったぞ!』と盛り上がりましたからね。海軍工廠で。」

海軍工廠では、明治時代から太平洋戦争終結までに、133隻の艦艇を建造しました。呉の港は「東洋一の軍港」と呼ばれていました。

呉で生まれた中倉さんは、父親を早くに亡くし、家計を助けたいと高等小学校を卒業後、14歳で呉海軍工廠に入りました。

■呉海軍工廠の元少年工 中倉勇さん
「当時就職した先は、造船設計部だったんですよ。そこで半日間、午前中教習所の学校に行って、午後は職場で仕事を習うという形で。」

所属した造船部では、図面を複写する作業を担当しました。

■呉海軍工廠の元少年工 中倉勇さん
「図面を書くのを、そこで1から教えてもらいましたね。船の構造図とか、いろんなものを鉛筆書きするわけですよ。それを今度はトレーシングペーパーといって、ちょっと薄い紙がありまして。それに墨汁で「からす口」と言ってね、線を引くものがあって。それで完成図面を作っていくのをずっとやりましたね。」

楽しみだったのは、昼食だったといいます。

■呉海軍工廠の元少年工 中倉勇さん
「アルミニウムのね、これぐらいの深い弁当箱があってね。ご飯とおかずが入っていて。量はたっぷりありましたね。割と深い弁当箱でしたから。」

その頃、極秘裏にすすめられていたのが「戦艦大和」の建造でした。「世界一の軍艦」といわれた大和。しかし、機密保持のため、進水式はささやかなものでした。中倉さんは、今でも鮮明に戦艦大和を記憶しています。

■呉海軍工廠の元少年工 中倉勇さん
「沖に出たら隠すわけにいきませんからね。沖に出た大和を初めて見たときに、長さはそうでもないですけど、幅がすごく大きい。大和の場合は、エンジンなどの中枢機関がありますから、そこを守るために二重隔壁で、空洞を作っとったんですよ。横っ腹が太いわけです。『わあ、太いのお』って。タライみたいと言ってましたね。」

かつての勤めていた場所は今…

呉市にかつてあった「海軍工廠」は戦後、造船業として呉の産業を支えてきました。

目隠しとして設けられた大屋根が、当時の姿のまま残されています。

中倉さんは、かつての呉海軍工廠造船部を訪ねました。戦時中に勤めていた庁舎は、今も造船会社が使用しています。中に入るのは、およそ80年ぶりです。

■呉海軍工廠の元少年工 中倉勇さん
「古いままですね。」

■ジャパンマリンユナイテッド呉事業所 勢戸数幸さん
「古いままでですね。一部はちょっと改修はしていますけど、この辺の周辺は、木の枠でまだ名残の扉も残っています。」

■ジャパンマリンユナイテッド呉事業所 勢戸数幸さん
「このあたりも、その当初のままの台になっています。」

■呉海軍工廠の元少年工 中倉勇さん
「この建物の2階だったですよね、造船設計。記憶では、2階にあがった記憶がありますから。」

■呉海軍工廠の元少年工 中倉勇さん
「(出勤は)阿賀におりましたからね。呉駅までJRに乗ってそこから徒歩。すごい行列ですよ、朝の出勤時間は。当時、車はほとんどいませんからね。車道をみんなでいっぱいになって、歩いていました。」

現在は史料館として活用されており、造船会社の社員が、海軍工廠から続く歴史を学ぶ場になっています。

■ジャパンマリンユナイテッド呉事業所 勢戸数幸さん
「この机とかがですね、当初の設計部が使っていたのではないと。」

■呉海軍工廠の元少年工 中倉勇さん
「これは覚えていますよ。これですよ。鉛か何かで作ってね。これで端を押さえて、動かないようにするんですよ。意外に重いですね。こんなに重かったのかなって思ったところですよ。」

「公試」で戦艦大和に乗艦

1941年10月、日々、図面の複写をしていた中倉さんに、大和に乗る機会が訪れました。

■呉海軍工廠の元少年工 中倉勇さん
「ここらへんに乗っとったんですよ、私。一番底へ。操舵のシリンダーが動くのを。そうそう、舵のところ。」

大和が海軍に引き渡される前、機能を試すテスト運転「公試」が高知沖で行われました。そのテストに、海軍工廠造船部が総動員されたのです。何度か行われた「公試」。しかし、大和の資料は終戦時に焼却処分されたため、記録はほとんど残っていません。

■呉海軍工廠の元少年工 中倉勇さん
「最大スピードを出して、一番大きい舵をきるわけです。すごい音がしましたね。ガタガタガタガタ。怖いぐらいの音がした記憶がありますね。一番下まで降りたら、私の舵をきるシリンダーがある所だったので。それ以外は、ウロウロしたら自分の位置がわからなくなるからね。」

1945年3月28日、大和は帰還する見込みのない海上特攻の命令を受けて、呉を出港しました。沖縄へ向かう途中、鹿児島県沖でアメリカ軍の猛攻撃を受け、海に沈みました。中倉さんは、19歳で海軍工廠を離れ、海兵団に入ります。大和沈没を知ったのは、戦後になってからのことでした。

呉海軍工廠跡にあった日本製鉄は、2023年9月に閉鎖され、解体が進みます。防衛省は、この地に「多機能な複合防衛拠点」を整備することを提案しています。

戦後80年。呉の歴史を体験してきた中倉さんに、今思うことを聞きました。

■呉海軍工廠の元少年工 中倉勇さん
「太平洋戦争に入っていったとき、国中が『いけいけ、どんどん』になったんですね。たぶん政府も平和論とか弱腰みたいなね。話し合いでということは、たぶん考えられなかったんじゃないかと。政治がやっぱり大切だなと思います。そうせんと、武力で決着をつけるところへ行くと思うんですよ。それがないようにね、今でも思いますね。」

最終更新日:2025年1月20日 7:00