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【特集】「原爆の父」オッペンハイマーが涙を流し謝罪 証言映像を広島で発見

2024年7月18日 19:48
【特集】「原爆の父」オッペンハイマーが涙を流し謝罪 証言映像を広島で発見

まもなく被爆から79年を迎えます。今回取り上げるのは、原子爆弾の開発を率いたアメリカの物理学者・ロバート・オッペンハイマーです。2024年、映画でも注目されました。広島の被爆者と対面し「涙を流して謝った」と証言する映像が、2024年に見つかりました。「原爆の父」と呼ばれた人物の苦悩と葛藤に迫ります。

「原爆の父」と呼ばれたオッペンハイマーは、第2次世界大戦中のアメリカで、原爆の開発計画「マンハッタン計画」の科学部門を指揮しました。

1945年7月16日。アメリカ南西部のニューメキシコで、計画は最終局面を迎えていました。オッペンハイマーは、人類初の核実験を成功させます。自らが開発した原子爆弾は、広島と長崎に使われ、その年のうちに21万人以上の命を奪いました。

アメリカでは「戦争の終結を早めた」と正当化される一方で、被爆の惨状を知ったオッペンハイマーは、原爆を生み出したことへの苦悩を深めていきます。1960年に来日しましたが、被爆地を訪れることはありませんでした。2024年、日本で公開された映画「オッペンハイマー」では、天才科学者の栄光と没落の生涯を描き、アメリカのアカデミー賞で作品賞など7部門を受賞しました。

映画をきっかけに、再び脚光を浴びたオッペンハイマー。2024年に「被爆者との対面」を証言する映像の存在が明らかになりました。

■ワールド・フレンドシップ・センター 立花志瑞雄理事長
「非公式に行われたことで、公開することを全然議論してなかったんですよ。もう一度、そういえばこういうことあったよねっていう感じで。」

残されていたのは当時、通訳として立ち会った女性の証言です。

■故・タイヒラー曜子さん
「物理学をやってらっしゃった庄野先生。オッペンハイマーのところに行くことになったんですね。その時に私は同行して下さいと言われて、行ったわけです。」

タイヒラーさんが1964年に参加した「世界平和巡礼団」。広島と長崎の被爆者らが世界各地を訪れ、被爆の実相を訴えました。訪問先のアメリカで、オッペンハイマーと対面したのが物理学者で被爆者の庄野直美さん。通訳として同行したタイヒラーさんが当時の様子を明かしました。

■故・タイヒラー曜子さん
「研究所の部屋に入った段階で、オッペンハイマー氏は、涙ぼうだたる状態になって。『ごめんなさい、ごめんなさい』と、本当に謝るばかりだった。」

長年、抱えてきた良心の呵責。被爆者と会い、感情があふれだしました。アメリカの大学に保管されていた資料に、この対面のスケジュールが記載されていました。「1964年6月。庄野博士がオッペンハイマーとの非公表でのアポイントのため、プリンストンを訪れる」と記されています。

一方、「世界平和巡礼団」の一行は、原爆投下を決断したアメリカのトルーマン大統領と、公開の場で面会しました。メンバーの1人だった、被爆者の森下弘さんは、トルーマン大統領の発言をメモに記していました。

■森下弘さん
「『本土に上陸ということになるとアメリカの多くの若い兵士の命が失われたかもしれない。それ(原爆投下)によって戦争を早く終わらせることができたんだ』と、言いましたね。」

トルーマン大統領は、謝罪の言葉を口にすることはありませんでした。

■タイヒラー曜子さん
「あくまでも原爆を投下したことを正当化した。それはそれなりの論理があるんだろうと思うんですけど、トルーマン大統領の言葉とオッペンハイマーの言葉の、この対比。これは私にとってとても重要な経験だった。」

6月、広島市の平和公園を訪れたオッペンハイマーの孫、チャールズさんは、被爆者と面会し祖父の思いを訴えました。

■チャールズ・オッペンハイマーさん
「今、世界は一段と危険が増している。しかも危険の度合いも新たな段階にまで達している。今こそ、ロバート・オッペンハイマーのアドバイスに耳を傾けるべきである。軍備競争などをしなければ、今のような核の脅威にさらされる状況にはならなかったはず。」

原爆を開発した科学者が苦しんだ罪の意識。「核の脅威」が高まる今、世界に大きな問いを投げかけています。