太平洋戦争開戦から83年 海軍の予科練生として戦争を体験した男性が言い続けたいこととは【徳島】
戦時中、海軍の予科練習生として戦争を体験した、徳島県吉野川市山川町の男性に話を聞きました。
この男性が語る当時の記憶や、いま伝えたいこととは。
12歳 放課後に太平洋戦争の開戦を知る
吉野川市山川町に住む阿部保夫さん(95歳)。
83年前の開戦時は、まだ12歳でした。
(海軍の元予科練生 阿部保夫さん)
「汽車で川島駅から山川駅まで通っていましたからね。ちょうど放課後に(汽車の)待ち時間に、いつもバスケットやったりテニスやったりして遊んでたんですよね。そしたら『戦争が始まったぞ』っていうことを聞きましてね。アメリカとイギリスと宣戦布告して始まったぞって聞いたんですよね」
1941年12月8日、当時の日本海軍がハワイ・真珠湾を攻撃し始まった太平洋戦争。
開戦して間もなく、阿部さんの父・伴五郎さんも戦場に向かいました。
(海軍の元予科練生 阿部保夫さん)
「父が、召集令状が来て中国に行ったんですけど、母や祖母が非常に心配しながら家の中がひっそりして暗くなったっていうことは、小学校小さいときですけど覚えてますよ。商売していまして、生活の支えや中心になる父がいなくなるっていうことに対しては、祖母やおふくろは生活の支えがなくなるっていうことに対する不安などに悲しんだのではないか」
15歳 海軍の飛行予科練習生に志願 そして入隊
15歳の時、阿部さん自身も海軍の飛行予科練習生に自ら志願しました。
この飛行予科練習生は、当時、世界的に航空機の需要が高まったことを受け、海軍が全国から選抜した少年を訓練し、熟練の搭乗員に育てようとしたものです。
(海軍の元予科練生 阿部保夫さん)
「(予科練生の先輩たちが)学校へ帰って来るんですよ。そして廊下を靴履いて、カッカッカッと教室をずっと回って来るんです。勇ましい姿を見たり、小さいときに上空に飛行機が飛んできたりしたのを見て、飛行兵に対する憧れが私自身にあった。先輩の姿や小さい時の思い出などが一緒になって、予科練に行きたいという気持ちになった」
両親には内緒で予科練の試験を受けた阿部さん。
1次試験の合格と同時に両親に報告しました。
(海軍の元予科練生 阿部保夫さん)
「『そんな大事のことを相談もなしに勝手に』と、父母は嘆いていました」
2次試験にも合格し予科練習生になりましたが、入隊後の訓練は激しく辛いものでした。
特に罰を受ける時は、バットのような棒で腰や尻を叩かれるなどしました。
そんな訓練のさなか、戦争が激しさを増します。
(海軍の元予科練生 阿部保夫さん)
「アメリカの戦闘機が、100機ぐらいがカラスが飛んでくるようにやってきて。編隊組んでバアーっと機銃掃射していくんですよ。バリバリって撃っていったんですよ。海岸の松林へ行こうと思って走って行ってると、途中で攻撃されて。ペタンと倒れたら帽子がポンと脱げた。脱げた帽子に銃弾が当たった。少しずれていたら頭をぶち抜かれるところだった」
1945年 終戦
九死に一生を得た阿部さんは、その後、戦場に出ることなく1945年に終戦を迎えます。
(海軍の元予科練生 阿部保夫さん)
「家に帰ってきて、軍服を脱いで、浴衣に着替えて風呂に入ったときに、初めて解放感と家族の大切さを感じた」
終戦後は師範学校を卒業し、教師となり40年間、小中学校の教員として働いていました。
しかし、生徒たちには自身の戦争の話を一度もしませんでした。
(海軍の元予科練生 阿部保夫さん)
「戦争の話をすることに対する自分の気持ちが、どうしても話をする気持ちになれなかった。自分の実体験を子どもに学習の中で教えておいたらよかったなあっていう気は、後になってしますよね。社会科の中に『戦争』って出てきますからね。そういう時に『先生もこういう戦争に参加しとったんぞ』ということを話したらよかったんかなっていう気は、後からしますよね」
時は経ち居なくなった予科練生の同士たち 当時を知るのは阿部さんだけに
子どもたちに戦争の話をしなかったことを後悔している阿部さん。
予科練生の同士たちはいなくなり、当時を知るのは阿部さんだけです。
(海軍の元予科練生 阿部保夫さん)
「戦争体験がある私たちが、声高らかに話をしなければ誰がするのか。年も95歳ですから、家内なんかは反対する。(講演の)依頼があっても『体調悪くてできません』って、家内の方が断ってしまったりね。(テレビや新聞などで)無残に焼け落ちた家を見たり、泣き叫ぶ住民の声を聞いたりすると、(戦争は)いかに愚かなものであるかと。勝っても負けても大きな負の遺産を残す。私の使命としては、命ある限りは戦争の悲惨さっていうものを自分の体験を通して話をせないかんなっていう気持ちが強い。『戦争は愚かなものである』、『戦争は絶対にしてはいけない』、『参加してはいけない』っていうことは、言い続けたいと思う」
戦争で亡くなった人たちの思いも背負い、阿部さんは語り部として後世に伝えていきます。
自身と同じ経験をする人が二度と現れないように。